孤独な魂が揺れる「パリ13区」(ちょいとネタばれあり。夫と真逆の感想にびっくりした話)その2
その萌芽が見えるシーンで、広大と私の意見は、真っ二つに割れちゃったの。
カミーユは、最近お母さんを亡くしてるんだけど、そのことに対しては無感情に見える。久々実家に帰ると、お父さんが、
「これで遺品整理をおしまいにするつもりだから、欲しいの持って行っていいよ。残ったのは捨てるから」
と言う。この時もカミーユは、一切感情をあらわにはしていないように見える。
「ああ、この車椅子なんてどうだい? 折りたためないけどな」
つけ加えるお父さんのアドバイスにもどこか上の空。
後のシーンになると、不動産屋に女性が訪ねて来て、
「あのー、車椅子を取りに来たんだけど?」
と言う。あれ? 結局持って来たんだ、と思う。
告知して(ネットだか張り紙だか、どっちだったかは失念、ごめん)買い手が見つかったわけで、
「これ、折りたためるのかしら?」
「はい、そのはずですよ」
いやいや、お父さんが折りたためないって言ってたでしょー、と思いながら観ていると・・・・。
「あれ?」
と首をかしげながら、何度もトライする。当然だけど無理。強く力をかけるので、車椅子はひっくり返っちゃったりする。
そうして。
カミーユが、涙を流すのだ。
女性も思わぬ展開に、
「大丈夫?」
と声をかけるけれど、戸惑いも隠せない。さらに折りたたもうと、頑張る。
広大は、強がっていたカミーユが初めてお母さんの死を心から受けとめて感情を表現した大切なところだと言う。
だからこそ、おばあちゃんを亡くしたエミリーの悲しみを理解できるようになり、一緒に告別式に行くことを提案したのだ、と。
もちろん、それが自然な流れだと、思う。思うよ。
でも、私は。
「そこで泣いちゃぁ、ダメじゃーん」
という思いの方が強く湧いてきていて。
なぜなら。
壊れていたカミーユは、いきなりノーマルであるゼロ地点を飛び越えて、反対側の壊れているエリアに入ってしまったと思ったからなのよ。
普通の人は、初対面の人の前でなんか、泣かない。どうやったって。ごまかして我慢するんじゃない? 相手のことを冷静に考えることが出来る人だったら、とてつもない不可解な出来事を、いきなり投げつけたりはしないのだ。無感情から、普通を飛び越えエモーショナルに。振り幅デカすぎで、危ない。
・・・・と私が言ったら、広大は、
「稀沙は、途中寝てたからストーリーの大切な伏線を見落としてるんだよ」
と言われた。
寝てたのは、事実。反論出来ず。でも、
「広大は、本当の孤独を知らないから、これくらいの兆しですべて解決して良かったーって思っちゃうんだよ」
と違う視点から、言ってみた。
ちょっと黙ってしまった広大。 けれど、後でもう一度考えてみたら、普通の人は突如初対面の人がこんなふうに泣いちゃっても、何か深い事情があるのかも、と事実そのものを受け入れられる器があるのかもしれない。広大の反応を見て思った。私は、普通が本当によくわからないからそう思ってしまうのかもしれないし、人前で泣くことを母から強くバカにされて来たので意地でも泣かない体質になっているから、カミーユの涙を批判的に見てしまうのかもしれない。 うーん、本当にわからない。 それにしても。
「寝てたからだよー」
と言われても、いつのまにか全然傷つかなくなっている自分に驚いた。以前のひねくれて心を閉じていた私だっただ、この言葉を冗談と捉えられず、ケンカになっていたはず。
「軽い気持ちで言ったのに、どうしてそこまで怒るの?」
「広大が、人の気持ちを考えないで、言うからよ!!」
まるで、エミリーまたはノラとカミーユの言い争いみたいだ。
でも、今は。
笑いつつ、さらに言い返すことが出来る。シニカルな感じも込めて。これは、本当に進歩。ここまで来るのに、本当に長い時間がかかっている。だから、この3人もそんなにすぐには変われないと思ってしまうのかもしれないな。
また性別の違いは、とても大きいと思う。2人のこじらせ女子は、男にとってはそんなに迷惑なことではないのかも。すぐになついてくる猫のように懐に入りこみ、不幸話を2,3個して、暫くは仲良くするけれど、そのうち揉めだしてしまう。
そうしたら、男は別れるまで。よほどのストーカー気質の女でなければ、つきまとったりはしないだろう。
女は、そうは行かないのよ。クラスや職場でその手の人がいる場合、何度も何度も男とのトラブルの話を聞くハメになり、いっこうに懲りないので毎回同じ結末が待っている。
特に親しくなくても耳に入ってしまうそれらの話は、妬みなんかではなく、
「自分のアプローチが悪いんじゃないの?」
と思ってしまう。
孤独感を全面に押し出してアピールすれば、かなりの確率で男は振り向いてくれるものだ。孤独という沼は、深くて暗くて。そんなゆきずりの関係で、埋められるものではない。
私がそのようなことをやらなかったのは、もちろん母によって容姿を貶されていたから、それを武器には出来なかったのと、かりそめの関係を結べば結ぶほど、より孤独感が増していくと思ったから。
三人三様の孤独は、この先どうなるのだろう。
ラストシーンの、
「ジュ・テーム」
は、それでも希望にあふれている。この2人は、これから先も何度もすれ違い、ケンカをし、カミーユの不用心な言葉にエミリーは傷つくのだろう。
「ジュ・テーム」
をゴールだと思ったら切ないけれど、始まりだと捉えると話は違ってくる。
そう、近い将来2人とノラは、きっとパリ13区で、幸せになれるはずだ。
そこのところは、広大と同意見。最後は、きっと幸せになってほしい。
私たちが、最初に一緒に観た映画は、今は亡き三鷹オスカーでの「さらば青春の光」。イギリスのブライトンが舞台の、悩める若者を描いた作品。三鷹オスカーは、名画座だったので、もう一本観ることになった。
時間帯によっては、併映の「アメリカングラフティ」の方を先に観ていた可能性もあったのね。1950年代の底抜けに明るいストーリーのそれよりも、なんだかウェットな青春を描いた「さらば青春の光」が初めての映画で良かったねー、と時折り思い出しては、笑い合う。
「パリ13区」は、そんな2人が初めて真逆な感想を抱いた記念すべき作品。モノクローム作品なのだけれど、心に残ったシーンだけ勝手に着色を施して、記憶にとどめよう。
ともあれ。
休日に一緒に映画に行ける仲を保つことが出来ていて、良かった、良かった。
孤独をまとい過ぎて着ぶくれしている私にも、日々小さくも幸せなことは起こる。そういうできごとを素直に受け止められる心の純度を大切にしていこう、と思う春の夕暮れでありました、とさ。