箸の持ち方は乱暴にせよ
私は箸が嫌いだ。
ラーメン屋に置かれた割り箸を見るたびにフォークをよこせと思っているし、味噌汁を見るたびにスプーンをよこせと思っているし、鮭の切り身を見るたびにナイフをよこせと思っている。
私は箸の持ち方が嫌いだ。
箸の持ち方は直感的でない。棒を2本渡されて、これで「手を汚さずに食事せよ」と言って、生まれながらにはできない。教育のなかでそこそこ高い負担をかけて初めてできるようになることなのだ。現代においてこの道具を採用する理由がない。
私は箸の持ち方を気にする人が嫌いだ。
大学生の時、5人ぐらいでラーメンを食べにいった際に、学友に箸の持ち方を指摘されてから、彼と1週間ぐらい口をきかなかったことを覚えている。
とはいえ、私も全く気にしないわけではない。家庭教師として家を回っていた頃、何度か食事の席にご招待いただく機会があった。その際にはかなりテーブルマナーに気を遣ったし、話題にも気をつけた覚えがある。市長と食事させていただいた際にはなおさら気を遣った。
「正しい」箸の持ち方
最近ふと思ったことがある。その「正しい箸の持ち方」をできる人はどれほどいるのだろうか。
私は、はっきりと、直裁に、端的に言って、箸が不自由だ。
一般に、箸の持ち方には正解がある。そして、この正解を多くの人は、幼児教育の段階から「正しい」持ち方としてそれを教わる。
しかし、私は全くそれを思い出せない。大人でも使いやすいエジソンのお箸があればどれほど良いと思ったことか。
そしてこうも思った。私と同じことを思った人間は、決して少なくないのではないか。
こう言った言葉は、古代ローマの時点でテキストに残り、現代に至ってはネットミームにまで至って紹介されてれている。
多くの「常識」は再考の視点と批判に立たされなければならない。改めて、私たちは、箸の持ち方について、本当に普遍的な感性を共有していると言えるのかを、一考すべきではないだろうか。
私はインターネットの海に潜った。
「正しい」箸人口
箸の人口について検索して、真っ先にヒットするのは以下のページである。日経のネットニュースだ。
まず、この記事はソースが怪しい。目白大学のこの元論文載せたの情報がない上に、発見できないのだ(元論文を私が発見できなかっただけかもしれないが、どうも見当たらない。)
しかし、仮にこれが事実であれば、正しく箸が持てる人間は1億2000万人のうち4000万人程度ということになる。元論文を見つけられた読者がいればご共有願いたい。
もう少し信頼できる調査として、愛知みずほ大学によるものがある。上原ら(2014)の研究によると、伝統的な持ち方ができている人は30代を除き50%程度になる。これは逆説的に、40%以上の人は「正しく」箸を持つことはできないことになる。
これに基けば、箸の持ち方は、確かに過半数の人間が正しく行えていることになる。しかしこれは「普遍的な感性」の立場を獲得できていると言えるのだろうか。
「正しい」箸 vs. 「伝統的な」箸
箸の持ち方に関する常識性の有無を問うたところで、そもそも箸の専門家である箸メーカーは「正しい」箸の持ち方などというのだろうか。私は以前、以下のようなことを見聞きしたことがある。曰く、箸メーカーは「正しい」箸の持ち方とは言わないと。
箸メーカーの漆芸中島のブログでは、箸の「正しい持ち方」といった言い方をしていない。代わりに、「伝統的で使いやすいお箸の持ち方」との表記がある。
日本箸文化協会でも、以下のような記載がある。
対照的に、はし和文化研究会では、タイトルに「正しい持ち方」との記載がある。
このように、「正しい」と「伝統的」の表記が、この日本には混在している。この両者から、箸の持ち方について「正しいか否か」を問う行為は、やや政治的な側面があると私は感じている。文化的に正しいことが広められるべきといった、ある種文化的ナショナリズムらしい感性が見て取れる。
そして、それが以下のようなツイートにもつながっていく。一体、箸の持ち方で、人間の何を図ることができるのだろうか。甚だ疑問でならない。
日本の「箸文化」を追う
箸文化、成立す
勝田(1999)の研究によると、日本の箸文化が庶民に行き渡ったのは、平安時代だという。
空海は箸食の者を救う祈りを込めて寺を作った。この時点で、箸と仏教が密接な関係を持っていることはやや不思議である。しかし、古代の時点から箸は宗教道具だったことを思えば不思議ではないのかもしれない。
現代の食文化としての箸に直接つながるものは、勝田(2000)の研究によると、室町時代に一応の成立を見た。
四条流包丁儀式は、現代でもみることができる。平安神宮の例大祭での様子は、以下のようにYouTubeからも視聴可能だ。
だが、ここからわかることは、箸の持ち方ではなく、「箸を用いた食事シーンの作法」である。箸の「正しい持ち方」はまだ成立していないのだ。
産声を上げない「持ち方」
まいどなニュースに掲載されている記事では、浮世絵に映る箸の持ち方が複数紹介されている。これを見る限り、現代のような「伝統的な持ち方」はいまだに成立していないのだ。各々がさまざまな持ち方をしている様子が、画像から見てとることができる。
明治に入り、だんだんと食が西洋化していく中で、以下のようなことを国家が口出しするようになる。勝田(2001)の研究では、以下の告示が紹介されている。
この時点で、児童教育向けに、箸の扱い方についてがブラックリストとして明文化されたとはいえよう。しかし、いまだに箸の持ち方についての規定はないのである。
Wikipediaの項目には持ち方についても記載があるが、元論文では持ち方については紹介されておらず、典拠不明である。
「正しさ」を持ったのはいつ?
昭和11年ごろに撮影された陸軍士官学校の写真では、明瞭ではないものの、「正しい持ち方」とそうでない持ち方が半々なように見て取れる。
昭和7年の動画では、まだ箸の持ち方というものがあまり意識されていないように見えるが、この時点で陸軍学校ではある程度広まっていたとすると、陸軍から広まっていった可能性は十分にありそうに思える。
昭和21年に公開された「1ヶ月500円生活」という映画には「正しい」箸の持ち方で食事する様子が描かれている。
出生不明児「箸の正しい持ち方」
このように、「正しい箸の持ち方」は現時点で誰が産んだかも、どのように出来上がったかも、いつ紹介され始めたのかも全くわからない、謎の持ち方なのである。
その上、なぜかこの出生不明児は具体的な姿で共有がなされているのである。伝統的でも正しくもない持ち方、それが「伝統的な、正しい」箸の持ち方と言えるのだ。
仮説としては軍部で発生したマナーが、一般家庭に持ち込まれたのではないかと筆者は予想している。
これを積極的に利用しようとする人からは、階級主義的で差別的な感性が見て取れる。このような記事をわざわざ書いている人間の人格はこの記事から図ることができるかもしれないが、箸の持ち方を見るだけではその代わりにはならない。
それにもかかわらず、「箸の持ち方」を見る人間に「品格」と人格や人間性を結びつける人があまりにも多いのだ。
箸の持ち方という色眼鏡
では、箸の持ち方を通して、人は何を見ているのか?
それは家庭の環境と教育の様子である。
家庭環境は、箸の持ち方に最も強く影を落とす。幼少期に家庭でどのような教育を受けたかが、その人の箸の使い方に反映される。
当然の話だが、非常に厳しくマナーを教育する家庭で育った子供は、「正しい」箸の持ち方を習得する可能性が高い。
逆もまた然りで、食事の際に箸の持ち方にあまり注意を払わない家庭で育った子供は、箸を「自由な持ち方」をする可能性が高い。
これが示すのは、箸の持ち方の源泉は、個々人の習慣にのみ帰せられるわけではないということだ。社会の影響を受けて家庭の教育方針が決まり、そのまた影響を受けて個々人の意識が決まり、さらに個々人の得意不得意が反映される。
手先の器用さを問われるものは、本来裁縫や筆使いと同じぐらい高難易度なのだ。
それにもかかわらず、人のマナーについて触れることは、その話者が持っている偏見や階級意識を発露していることに他ならない。
歴史的に見ても、食事マナーはしばしば階級や地位を示す手段として使われてきた。例えば、ヴィクトリア時代のイギリスでは、上流階級の厳格なマナーが中産階級にまで広がり、社会的なステータスを示すものとなった。
日本においても、箸の持ち方は「品性」や「育ち」を表すものとして認識されており、正しい持ち方ができることが社会的に高く評価されることが少なくない。
アーノルドの言葉を借りれば、箸の持ち方も「完全性への愛」から生まれた文化の一部であり、それが社会的に重視される背景には、完璧さや秩序を追求する人々の価値観がある。
しかし、ここで重要なのは、箸の持ち方という基準がすべての人にとって公平ではないということだ。
家庭環境や教育の違いによって、同じ基準を満たすことが困難な人々もいる。そして、それはどうも意外と少なくないらしい。このような文化的な基準が、社会的な排除や偏見を生んでいるのだ。
また、核家族化の進行により、家庭教育がますます困難になっている。核家族化は、親と子供だけの家庭が増える現象であり、祖父母などの多世代家族のサポートを受けにくくする。
これにより、子供に対する家庭教育の負担が親1人、もしくは2人に集中し、十分な時間やリソースを割けない場合が増えている。
現代の社会では、共働き家庭が増え、親が仕事に忙殺される中で、子供に対して食事マナーや箸の持ち方を教える時間が減っている。これが、箸の持ち方が多様化し、「正しい」持ち方を習得する子供が減少する一因となっているのだ。
核家族化の影響は家庭教育の難易度を上げている。その上、マナーに厳しい人々が、さらに家庭の負担を押し上げている。
したがって、箸の持ち方に厳しい基準を設けることは、現代の多様な家庭環境や核家族化の進行を無視した不公平な評価基準となりうる。
箸の持ち方はバリアフリーではない。
箸の持ち方に厳しい人々が、その背景にある家庭教育の現実を理解し、受け入れる姿勢を持だなければならない。そうすることで、真の意味での共感と理解が生まれ、社会的なバリアを取り除くことができるのだ。
品格は食卓マナーからわかるのか?
食卓マナーは食卓マナーでしかない。しかし、どうやら食卓マナーを人格や品格と結びつける感覚はあまり珍しいものではないようだ。
イギリスの文筆家であるマシュー・アーノルドは、以下のような言葉を残した。
彼がこのような言葉を残した当時、労働者やブルジョワが社会的に台頭していた。貴族階級の彼にとって、彼らはの粗野で横暴な人々に映ったのだろう。
アーノルドは、文化とは上流階級のものであって、「粗野で横暴な人々」に文化はないとした。彼が日本に生まれていれば、食卓マナーも守べきエリート文化の象徴として挙げていたに違いない。
この視点では、箸の持ち方も知識人によって保持されるべきものとされ、そしてそれが厳格なマナーとなることで、社会の秩序と調和を保つための手段になるとするのかもしれない。だからこそ、労働者階級や新興階級による「乱れた」マナー、現代日本においては「箸の乱れ」は批判の対象となる。
序盤にも簡単に触れたが、「正しい箸」主義者の感覚は、アーノルドが強調するエリート主義的な文化観と類似しているのだ。
しかしこの価値観は絶対的なものではないはずだ。文化研究者のホガートは労働者階級の中にも文化を見出した。
この話を箸に置き換えれば、箸の持ち方が不慣れな4割~7割の人々には、彼らならではのこだわりや食事文化があるはずだ。そして、時にその食事文化は、彼らにとって箸の持ち方以上の価値があるはずなのだ。
我々は同じ日本語を話し、同じ日本文化に属するとついつい考えてしまう。しかし、現実には1個人ごと…は仮に過剰だとしても、都道府県ごと、地域ごと、家庭ごとに異なる文脈と文化と喋り方を有する。
エドワード・サピアは次のような指摘をした。
言語もマナーも、どちらもコミュニケーションのプロトコルである。怒チアも、そのプロトコルが使われる社会の中の価値しか反映できない。我々に近縁の社会であるからといって、あるマナーを絶対のものとし、あるプロトコルを廃絶することは、必ず幾らかの人々を取りこぼす。
箸の持ち方を絶対のものとすることは、その悪習の第一歩にはならないだろうか。
ウィリアムズのいう普通とは、ある社会における基礎ということである。彼は文化が日常生活の中に根ざしているものであり、社会全体に浸透していると考えた。
逆説的に、箸の持ち方は日本の文化ではない。4~7割の人間が扱えない、非常に高等なマナーをわざわざ社会の基礎とすることで得する人間は誰なのだろうか。
食卓マナーの広まらず
食卓のマナーと品格の結びつきは、日本だけの話ではない。多くの文化において、食卓マナーはその文化の一部として重要視されている。
しかし、階級が強く残るイギリスでさえ、一般庶民への食卓マナーの圧はそれほど強くない。また、社会の大衆化が進んでいるスペインでも、食卓マナーに対する圧力は少ない。
階級社会
イギリスの食卓マナーは、特にヴィクトリア時代以降、厳格なエチケットと共に上流階級から中産階級へ広まった。
上流階級の厳格なマナーは社会のエリートによって保持され、その影響は中産階級にも波及した。中産階級は、上流階級のマナーを模倣し、自身の社会的地位を高める手段とした。しかし、労働者階級においては、これらの厳格なマナーは必ずしも広がらなかった。
それはなぜか。労働者階級の食卓マナーは、実用性やコミュニティ精神を重視するものであり、上流階級によって何かが押し付けられることに対して、強固に抵抗したためだ。
現代のイギリスでも、学校で学ぶ食卓マナーは基本的な作法に限られ、カトラリーの使い方やナプキンの広げ方などが教えられる程度である。一般家庭では、それほど食卓マナーは重視されていない。
分断を乗り越えて
スペインにおいても、基本的な食卓マナーは教育の対象となるが、イギリスに比べるとさらにカジュアルである。家族や友人との食事が重視され、リラックスした雰囲気で食事を楽しむことが基本だ。スペインの食事マナーについては、「Buen provecho」という食事の前の挨拶があり、これは日本の「いただきます」に近いものだ。
スペインは1936年からスペイン内戦を経験している。共和派と国粋派に国家が分断され、1つの国家で争った。ジョージ・オーウェルは、共和派側で従軍した経験を『カタロニア讃歌』で綴っている。その中には、共和派の将校が自らを「将軍」と呼ばず、「同志」と呼ばれることを好み、一般市民階級の人々と共に宴会騒ぎを楽しんでいたエピソードがある。そこにあったマナーは「楽しみ、今日を生きること」だった。
内戦後の経済的困難や社会的分断は、家庭の食卓文化にも影響を与えた。戦後の困難な時期には、シンプルで質素な食事が一般的だったとされるが、復興と共に食卓マナーも再び重視されるようになった。しかし、依然としてカジュアルなスタイルが主流である。
「箸の持ち方」は過剰に難しい
現代においても、学校で食事マナーを学ぶことはある程度一般的だ。しかし、ヨーロッパの食事マナーと日本の食事マナーを比較すると、日本のマナーの難しさが際立つ。
ヨーロッパでは、出てくる料理に合わせて食器を使うなど、道具の使い方が直感的である。一方、日本では箸の持ち方が非常に重要視される。
日本の食事マナーは、「正しい」箸の持ち方を習得するために、幼少期からの教育が必要であり、大人になってから修正が効かないことも多い。これは、箸の持ち方が直感的でないことを示している。
つまり、日本の「最低限必要な道具に関するマナー」のハードルは非常に高いのだ。
これには反省の余地がある。食卓マナーが過度に厳格である場合、それは社会的排除や差別の一因となる。箸の持ち方に厳しい基準を設けることは、現代の多様な家庭環境や核家族化の進行を無視した不公平な評価基準となる。
食卓マナーは階級主義者の武器である。だから、箸の持ち方は乱暴にせよ
さて、食卓マナーが過度に厳格である場合、それは社会的排除や差別の一因となる。食卓マナーという名の見えない鎖で、私たちは縛られているのだ。
外国人に対しては文化の違いで納得しやすいかもしれないが、文化は各々の内面にあるものであり、個々人でも全く違うのだ。
我々は平等で公平な市民社会を目指してきた。
それにもかかわらず、食卓マナーが階級を区別する道具として使われている現実を直視しなければならない。
今までのように、労働者階級、ひいてはそれが構成する市民社会に対して、食事マナーという色眼鏡を通して覗き込むことは、ナンセンスである。適合しない。
食卓の上のマナーが、その人の価値を決めるべきではないのだ。
日本は一億総中流社会という理想を掲げてきた。これは労働者階級が中産階級になることによっておおよそ達成されたといえよう。
しかしその中で、日本はなぜか、伝統的でも正しくもない箸の持ち方をありがたがっている。この矛盾に気づかないのは全くもって異常なことである。
階級主義的な文化に対する態度と同じである。箸の持ち方に厳しい人間は、箸を通して階級を見ているのだ。彼らは、箸の持ち方がその人の品性や育ちを示すと信じ込んでいる。
これは、明治維新を通して国家の下に公平を作り、戦後改革を通して平等を見てきた先人たちの理念に反する行為である。
偽りの伝統に固執することは、無知と同じである。
箸の持ち方がなっていなくとも、我々は共に1人の市民として語り合うことができるのだ。人間の価値は、箸の持ち方ではなく、その人がどのように他人を尊重し、理解し合うかにある。
箸の持ち方などという、面倒で複雑で無根拠で日本にそぐわない習慣は今すぐ捨てよう。
私たちはもっと自由に、堂々と、そして楽しく食事を楽しむべきなのだ。
だから、箸の持ち方は乱暴にせよ。
【おまけ】文化について定義のメモ
本項目では、本文中で触れた人(マシュー・アーノルド、リチャード・ホガート、エドワード・サピア、レイモンド・ウィリアムズ)のそれぞれの定義する文化について簡単に書いている。
実際のところ、蛇足と判断して本文中から削除した項目で、当然退屈だ。最後の最後にようやくもおいてあるので、インスタント麺が食べたい人は、目次から "In a nuts shell" の項目にまで飛んでほしい。
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