細江英公さんを悼む
細江英公さんが9月16日に逝去された。享年91歳だった。
細江さんと土方巽の関わりは長く深い。日本の舞踏を見る上で写真家細江英公の仕事は欠かすことはできないし、日本の写真を見る上で舞踏家土方巽を欠かすことはできない。
その二人、細江英公さんと土方巽とが出会ったのは、津田信敏近代舞踊学校、のちのアスベスト館であった。
細江さんが土方巽の踊りを見たのは《禁色》(1959年)が最初で、終演後ただちに楽屋に飛び込んで、その感激を伝えたという。「あなたが、こんなにすごいダンサーだったとは」ということだが、それ以来、細江さんは何かにつけて土方巽を被写体として撮影することになった。
一方、三島由紀夫がアスベスト館で土方巽の《禁色》のリハーサルを取材を兼ねて見学し、その「前衛舞踊」を絶賛したのである。
三島由紀夫の支援もあって世にでることとなった土方巽が首唱したDANCE EXPERIENCEの活動は、土方巽のリサイタルでもあったが、その2度のリサイタルのパンフレットが「土方巽氏におくる細江英公写真集」として残されている。
これのパンフレットは、土方巽の肉体とダンスに惚れ込み執心した細江さんの傑作にほかならない。しかも、この2冊にこそ、土方巽が「舞踏」へ向かう確信が込められている。
そして、細江さんの土方巽を被写体とする写真を見た三島が、自らを被写体とする写真を求めたことをきっかけに写真集『薔薇刑』(集英社)が成立する(1963年)。この写真集には、アスベスト館でも撮影され、土方巽と元藤燁子もモデルとなっている。
その2年後、細江さんと土方巽は秋田に向かった。土方巽を被写体とする写真撮影の旅であった。羽後町田代の村落内のさまざまな場所で、2日間にわたって即興的に撮影が行われ、世界で無二の写真が生み出されたのである。まさに写真と舞踏の幸福な結合にほかならない。
土方巽の舞踏公演《土方巽と日本人ー肉体の叛乱》(1968年)にも影響を与えた田代での撮影は、写真集『鎌鼬』(現代思潮社)として結実する(1969年)。
いずれにしても、細江さんは『薔薇刑』と『鎌鼬』の写真家として世界中で知られることとなる。撮影手法は異なり、被写体となる2個の肉体は異質で、撮影場所も都邑の違いがある写真だが、細江さんにとってはDNAの螺旋のように絡み合って、細江さんの写真哲学によって、一つの写真表現の結晶になっているにちがいない。
かくして、細江さんの写真に向き合う態度や写真をどう世に出すかは一貫していて、写真家細江英公を日本を代表する無二の写真家たらしめている。
細江さんはその後も、折に触れ土方巽を撮影している。舞台写真は本領ではないとしつつも、その舞台写真も明快で舞踏家土方巽を際立たせている。
細江英公さんの業績や公職、さらには受賞や叙勲についての紹介は本稿では省くとして、鎌鼬美術館の成立については記述しておかねばならない。
『鎌鼬』の撮影地である田代の有志の方々が、アート・センターに訪ねてこられたのは2015年のことであったか。田代に細江英公さんを記念する場を設けたいということで、細江さんにその希望を伝えたところ、それならば土方巽アーカイヴの森下に相談するようにということであった。
上京されアート・センターに来所された有志の方々のお話をうかがって、つまりは細江さんに直接、談判するにシクはないということで、有志の方々とともに細江さんの事務所を赴き、面談することとなった。細江さんの指示は明快で、それならば「美術館」にしてはどうだろうということだった。
美術館とは田代の人たちにとって、雲を掴むような話だったろうが、土方巽アーカイヴが全面的に協力するということで具体化へと進めた。文字通りの紆余曲折を経て、田代の人たちの情熱が実り、2016年には鎌鼬美術館のオープンにこぎ着けたのである。
三島由紀夫と土方巽を写真にしてきた芸術家ということで、知らない人は細江さんは強面の人とのイメージを描くところだが、細江さんにお会いするとその印象は一変する。物腰が柔らかいというのでもないが、細江さんの対応は率直で柔軟で、お話はポジティブで具体的で、仕事は前向きに進捗するのである。鎌鼬美術館もその賜物であった。
撮影から51年後の10月、鎌鼬美術館のオープンの日。細江さんは田代を訪れ、杖をつきつつもニコニコとして鎌鼬美術館に歩を進められ、建物の正面に来ると、杖を捨てて踊り出されたのである。細江さんを迎えた館長のイタチも驚き喜んだにちがいない。
この日から田代の村は「鎌鼬の里」となったのである。(森下隆記)