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ありえん太いドイツ語形容詞

写真は先週買ったメキシカンコーラです.世界一うまいらしい.

動機・目的


ドイツ語の勉強会で使用している教科書の練習問題で興味深い形容詞に出会ったので,意味や語源を調べた.以下はその問題(の)文.

7. 彼の太い(dick) 腕 (複数で:pl. Arme)(1格)

しっかり身につくドイツ語トレーニングブック CD BOOK
第20課「形容詞の用法と格変化」練習3 (p.177)
https://www.beret.co.jp/book/41207

ドイツ語では名詞の前に形容詞を置いて修飾する際には形容詞の語末に "-e" や "-en" をつけるルールがあり,この練習問題ではさらにここに不定冠詞や所有冠詞を置く際の変化の仕方を学んだ.

本問題で注目したいのはこの練習問題で紹介されたドイツ語の形容詞 "dick" であるが,これは背景を補足しておくと,全15問ある練習問題うちの14問が不定冠詞の「1つの~」や「ある~」で始まるのに対し,唯一この第7問のみが「彼の~」と所有冠詞で,著者からの奇妙なメッセージ性が感じ取られたために更なる調査に至った.


ドイツ語の「太い」という意味の語


コトバンクから小学館のポケットプログレッシブ独和・和独辞典の項を孫引きする.日本語の「太い」の訳には "dick; stark"とあり,Collins Dictionary を参照してもこの2つの語が出てくる.後者はどちらかと言えば "strong" に近く,同じスペルの英単語 "stark" と同根語であるようだ.大きいことは強いことみたいなニュアンスが感じ取れる.

Wiktionary によると語源はゲルマン祖語の *starkuz であるようだが,英語は "stearc, starc" (古英)→ "stark, starc" (中英)と時代とともにスペリングが変化して(というより時代的に正書法の問題,スペリングはこれ以外にも無数にあるであろう)現代の "stark" に落ち着いた一方で,ドイツ語では "stark" (古高独)→ "stark" (中高独)と変わっていないという印象を受ける.

さらに調べると,このページでは印欧祖語の "*sterg-" から来ているとの記述がある.印欧祖語がどう再建されているのかあまり良く理解していないので今度調べよう.


ドイツ語の "dick" の語源


問題の形容詞の語源に焦点を当てていく.またしても Wiktionary から.

まずドイツ語の単語の説明を見てみよう.大元は西ゲルマン語群の "*þikkwī" から古高ドイツ語 "dicki, dicchi" そして中高ドイツ語の "dicke" になり,最終的に現在のスペリングになったようだ.

同意の英単語 "thick" は同根語であり,"d" と ”th” は発音が近いので想像が容易である.なお "thick" をさらに引くとこれが 古英語の "þicce" から来ている事,そしてさらに先述の "*þikkwī" がゲルマン祖語の "*þekuz" とそれがさらにその元の印欧祖語の "*tégus" から来ている事がわかった.

なおこの見慣れない文字 "þ" は "thorn(ソーン)" と呼ばれるルーン文字由来のラテン文字で,アイスランド語では現代の正書法でも用いられるそうだ.

ちなみに昨日の記事で KJV の一節を引用した際に ”ye” という見慣れない単語が出てきたのを調べていなかったが,この Wikipedia のページにこの文字が "y" と混同され、定冠詞 "þe" を "ye"と書いたとの記述があり,このことからこの見慣れない語が英語の ”the" と対応することが分かった.思いもよらない伏線回収に感動である.


英語の "dick" の由来


先の Wiktionary ページに戻って英単語としての "dick" の説明を見てみよう.4つ記述されている語源のうち2-4つめは限定的な意味/用法の説明だったので省略した.どうやら "Dick" は英語の名前(given name)の "Richard(リチャード)" の愛称(pet form)である.

説明には "everyman" を意味する様になった(そしてその他の意味も)というような記述があるが、自信がないので Cambridge Dictionary でも確認した.この語は「どこにでもいるごく普通の人」みたいな意味である.

よく知られた人の名前(given name)をこの意味でスラングとして使うという文化が英語圏にはあり,Etymonline には1723年に "Tom, Dick, and Harry" がこの意味ですでに使われていたと記述する文章が引用されている.日本語で例えるなら,「どこにでもいるようなごく普通の人」を「佐藤」とか「鈴木」とかと呼ぶ感じであろうか.

英語圏の TikTok や Instagram に触れている人であれば,度を越した自己中心的態度で横暴で攻撃的な中流階級の白人女性が ”Karen" と形容されているのと同じ好悪像である.日本語の「老害」に近い感覚.

こういう特定の(多くが好ましくない)行動の原因を,年齢や性別や人種という外見に強く依存する要素のみに帰着させて揶揄する語が流行るという現象は,比喩表現の興味深い例である一方,偏見以外のなにものでもなく,悲しむべきことである.


かわいそうなディックさん


みなさんが期待していたであろう英語圏の ”dick" のスラングの起源も一応調べたので最後に簡潔に紹介する.英語版 Wikipedia によると,17世紀中盤にはすでに性的パートナーのことをこの単語で呼ぶ例があったとの記述がある.記事で引用されている Richard Head の文章は官能的なので参照の際には注意されたい.そして1880年代に軍隊でこの語が男性器を意味するようになり,読者の紳士諸君は類い稀なる外国語への知的好奇心からこの意味を知ることになったのであろう.マジで「彼の太い(dick)」の並びにゴーサイン出したの誰だよ

英語に堪能でない諸兄のために日本語版 Wikipedia のページがご丁寧に用意されているので,必要に応じて参照されたい.


本記事の内容は以上です.ここまでお付き合いいただき感謝します.こんな感じの取っ散らかった備忘録を細々と投稿していきますので,フォローして頂けると幸いです.

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