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なぜ思い出は美化されるのか

朕はいわゆる懐古厨的な性質が強い人間である。
小学生時代は毎日学校の文句を言っていたのに、中学生になると毎日「小学校は楽しかった」「小学生に戻りたい」と言いまくって家族に呆れられた。
楽しかった出来事や好きなゲームの発売日、アニメの放送時期から現在までの経過時間を数えて「もうあれから◯年…!?」と感慨に耽る頻度も人一倍多いと思う。

こうして懐古を積み重ねた結果、最近「思い出が美化される理由」について気付いたことがある。
それは「かつて感じていた不安は無効化される」ということである。

小学校時代にだって嫌なことがたくさんあったのは覚えている。運動会の全校練習でゲロを吐いたり、バレーの授業でちょっとミスっただけでチームのヤンキー予備軍から永遠に詰められたり、重要イベントに遅刻して白い目で見られたり…
わりと簡単に思い出せるし、こうした出来事について「喉元過ぎれば熱さを忘れる」というのも思い出が美化される要因のひとつだろう。

しかし当時背負っていた負の感情は、辛い出来事の最中に感じた苦しみや、帰宅後その出来事を振り返って感じた後悔などには留まらない。

むしろそれ以上に、「席替えで怖いクラスメイトと隣になったらどうしよう」「運動会の朝練、走っても間に合わないけど怒られたり嫌われりするだろうな」「今教わってること全然分かってないけど、ここで先生に当てられたら恥かくよな」とか、未確定の出来事への不安を無数に抱えて生きていたはずだが、こんなことなかなか思い出さないだろう。
こうした想像上の出来事は実際には起こらないか、起こっても今こうして無事に生きているわけだから結局なんとかなったこととして脳内で処理される。不安を無数に抱えて生きていたはずなのに、それらは実際に起こった有限数の辛い出来事よりもずっと思い出しにくい。
思い出せてもせいぜい出来事の最中に感じた苦痛くらいで、その前に感じていた不安まで思い出すことは稀だろう。ヤンキー予備軍に詰められたことだって、詰められたこと事体はそこそこ思い出すが、バレーの授業があるときは前日から憂鬱だったことまでは思い出さない。それでもその前日は確かに不安が頭の大部分を占めており、楽しむ余裕などなかったはずなのである。
また、嫌な出来事の最中に感じる苦しみも、例えば「今ゲロを吐いたことによって明日からいじめられたらどうしよう」といった暗い未来の想像に起因する場合も多いはずだ。人が感じる苦痛は不安が大部分を占めているのかもしれない。

履修登録しているものの試験一発で評価されるためほとんど出ていない授業があるが、今のところ内容を全く理解していないのでこの授業のことを思い出すと不安になる。他の授業のことを考えるときよりも気が重い。しかしもしこの授業の単位が取れれば、不安に思っていたことなどすっかり忘れ、むしろ労力なく短時間で単位が取れた楽単としてこの授業のことを思い出すことになるだろう。
「人は忘れるから生きていける」とかよく言われているが、思っている以上に本当に多くのかつて背負っていた苦しみを思い出すことなく生きているのだと思う。

朕が懐古厨なのは、不安症ゆえに、振り返って見える過去と当時の自分が抱えていた感情とのギャップが人一倍大きいからではないかと思った。
不安症といっても、遠い未来のことについては楽観的だから多浪しているような気もするが。

今の生活は苦しいと感じることもよくあるが、苦痛の原因は不安が大部分を占めているように思う。どうせ起こらないことや起きてもなんとかなることに気を取られず、大胆不敵にハイカラ革命したいものだ。
ダブル・スタンダードかもしれないが、同時に、過去の自分についても「あんなに楽しかったのに何をそんなに文句を言っていたんだろう」などと過小評価せず、不安を抱えながら生き抜いたことを誇りたい。

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