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公開は、応答を期待している。

日常の気づきを書く、とか言いながら、自身の身の上話を長々と書いてしまったなと思っている。

日記としてなら、それでいいのかもしれない。
けれど、誰かに読んでほしいと思って書いているのであれば、考え直す必要がある。

社会で起こっていることや、身の回りでも、見聞きし、体験した出来事について、自身の中で解釈する。
そこで生まれた、ひらめきや気付き、つながりを共有する。
と言った、外のものと紐づけることをしなければ、相手の理解は得られにくい。伝わらないから。

これは相手の立場にたって話をするということだろうか。
話し相手に敬意を払う、といったほうが近いかもしれない。

私自身は、現状、この書いている文章を、誰かに読んでほしいのかどうかよくわかっていない。
過去に、発信ではなく発露、といったように、私にとってこの文章たちは、将来、もしくは書かれている今このときに、自身からの応答を期待して書かれているもので、セルフケアの一環のようなものである。

自身との対話、内的対話、創造的対話。

対話という言葉が、私の中ではずっとキーワードの一つなのだが、自身からの応答というのも、言い換えれば自身との対話、ということになる。

このあたりの話は、ロシアの思想家、ミハイル・バフチンの対話思想にかなり強い影響を受けている。

「生きることとしてのダイアローグ」という桑野隆さんの著書で詳しく解説されていて、多くの気付きがあった。

ひとというものは、(中略)一個人としてあるよりさきに、個人と個人の相互関係があるという考え方です。バフチンの考えでは、〈対話〉状態のほうが自然なのです。「生きている」ということは「対話をしている」ということ、あるいは逆に、「対話をしている」ことが「生きている」ということなのです。

『生きることとしてのダイアローグ』桑野隆 p7

この、他者がいるからこそ、自身が存在している。という考えを持つと、ツイッターの惨状も、孤独の問題も、色々と見えてくるように思う。

「孤独」という言葉、話し相手、相談相手がいない状態の悲しさというものを、今までもこの言葉から感じてはいたものの、一人でいること、と一人ぼっちであることの違いを深く考えることはなかった。

しかし、バフチンの対話思想について知ったあとでは、この孤独という状態が、より絶望的なモノだという認識に変わった。


生きていることと対話の結びつきを知ったのがバフチンだとすると、生きづらさと孤独の結びつきを意識したのは、大空幸星さんの取り組みを知ってからだと思う。

去年知りました、応援してます。


自身に向けて書いていると言いつつも、今、この文章は誰かに向けて書かれていると感じている。
二転三転していて読みにくいけれども、おそらく、バフチンの名を出した時点で、架空の読者を想像し、その相手に対し、この話が気になったのなら、ぜひ読んでみてほしい。と言っている。
そして、私はその応答(感想)を期待している。とも告げているように思う。

前回の記事で長々と自分語りをしているのは、それについて打ち明けて話をするような人が身近にいなかったというのがあるのかもしれない。
対話的な、意味のやり取りを行い、自身を更新していくような創造的な状況に、身を置けなかったことが、どこか響いているのかもしれない。

こういうことを、承認欲求というのだろうか。
苦労を認めてほしい、共感してほしい、的な。
わからないけれど。

個人的には、私の経験したような(私にとっての)「生きづらい状況」をどうしたら変えていけるのか、生きやすくなれるのか、そもそも生きやすさとはなんだ。みたいなことを考えるきっかけの話として、話題の前口上的な意味合いで書いてみたつもりだ。


改めて意識してみると、Twitterでのつぶやきも、Instagramのショートも、このnoteの投稿も、インターネット上に公開しているという点では同じだ。

バフチンの言葉を借りるなら、これらも、日常での会話、〈発話〉と同じく「誰かに向けられた、宛先のある言葉」である、と言えるだろう。

写真も、記号としての言葉と解釈できる。文字よりも解像度の高い事実と、より不確かな文脈を含んでいると考える。

つまり、宛先のある、問いかけ的な公開という行為には、共感などといった応答への期待がある。

そう言えるのではないだろうか。

書いてみれば、まあなんとも、当たり前のことのように感じられるけれど。



久しぶりに対話思想の話を思い出せて、私は満足です。99%自己満足。

23/02/18





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