書くことが、考えること。
昨日、アランのプロポという形式を参考に、これから文章を書いていきたいと書いた。
プロポについては耳にした程度の情報しか持ち合わせていないけれど、その表現形式に惹かれ、物は試しということで、こうして文章を書いている。
途中、プロポについて説明する必要があると思い、頑張って書こうとしていたのだけど、肝心のプロポを読んだことがないので、具体的に説明することはできず、この曖昧な感情をどう表現したものか、苦悩した。
解説を聴き、紹介文を読み、自身の中では惹かれるものがあったけれど、それを言語化するとなると、どうもぼやぼやしてしまい、改めて考え直す必要があると感じた。
もし、プロポについて書こうと思っていなければ、なんとなく惹かれる、で止まっていたのかもしれない。
考えたことを書く。という意識でいたけれど、書くからこそ、考える。という流れなのかもしれないと思えた。
よく、誰かに教えると、教えた本人の理解も深まる、といった話を聞く。
実際に誰かに何かを伝えようと必死に説明していると、説明しながらすっと理解が深まる瞬間が訪れたりする。
書くから、考える。という流れも、それと似たようなものなのだろう。
コーチングというものにも、近いのだろうか。
思ったことをただ書き出すだけでも、グチャッとした思考が整理されていくのを感じる。
何かをまとめる、アーカイヴとしての文章ももちろんあるけれど、書くこと、その行為そのものが創造的な、思考する文章というものも、あるよなと。
知らないことは書けない。だから、書こうとすると、知らない部分が見える。
それだけのことだけど、知らない部分を、頭で把握することは意外と難しい。知っていることだけで、思考がぐるぐる回ってしまう。
知らないことをわかっていても、「知らない」「わからない」だけがぐるぐるする、なんてこともある。
だから、百聞は一見にしかず。手を動かしてみろ。ということなんだろう。
知識としての理解と、経験としての理解では、密度とか深度が違う。
それこそ、言語化できない部分での繋がり方とかが段違いだと思う。
書くことが考えることにつながって、動くことに繋がる。動いたことが書くことになって、また考える。
そうして繋がっていけばいいな。
23/02/16