きもちわるい
昨今、ルッキズムに飲み込まれてしまう人が増えすぎているのでは無いだろうか。
かくいう私も、その1人だ。
これから書く文章は、きっと誰かを傷つけてしまう。きっとこんなものは書くべきではない。
だから、貴方にもこんな文章は読んで欲しくない。
可愛いもかっこいいも人それぞれ!多様性を認めよう!みたいな綺麗事をSNSでよく目にする。
(まあ綺麗事だと思う時点で私は終わっている。)
そんなの嘘だろうと思う、最近売れてるアイドルの顔はだいたい構造が同じだ。目が大きくて二重で、鼻が小さくて、顔が小さくて、肌が白い。
もちろん好みはあるだろう、だが万人受けするのはこんな顔なんだとみんな察してしまっているのではないだろうか。
ルッキズムに侵され歪んだ私には、みんなどこかで、こういう人が可愛い。こういう人は可愛くないってラベル付している癖に、叩かれたくないから''みんな違う可愛さがある''って嘘をついているようにしか見えない。
顔面至上主義を信仰すれば信仰するほど、私は私を苦しめるはずなのに、なぜだか辞められない。
辞めてしまえば今までの私を全否定するようで、刃向かえない。
ここで容姿について悩むきっかけとなった私の人生の話をする。
私は小学生の時から顔面へのコンプレックスがあった。親戚の家に行けばモデルをしている可愛くてスタイルの良いいとこと比べられ、学校ではブスと呼ばれいじめられた経験があった。小学生男子の悪口のボキャブラリーは貧しい、しかその中でも特段傷つけることの出来る言葉が容姿に対するものだと幼いながらも分かるのだろう。
例えば馬鹿という悪口を言われたとしても、本人のテストの点が良ければそんなことは無いと否定できるだろうし、事実を武器に反論ができる。
けれど容姿への評価というのは、一般的に周囲からのなんとなくの評価でしかなく、ブスと言われても確固とした反論は出来ないのでは無いだろうか。
私はそうだった。ブスと言われたとき、わたしってブスなのかと落ち込んだ。可愛くない癖に調子に乗るなと言われた時に、可愛くないことは罪を重くすることになるのかと思った。(その当時は絶不調で調子に乗るなんて有り得なかった為、可愛くないことは罪なのかと思った記憶の方が鮮明。)
いじめられていた時、1番自分に投げられたちくちく言葉はブスだったと思う。
本当にちくちくしていた、小学生6年生のときからマスクをつけないと外に出れなくなった。
他人に顔を評価されて傷つけられることが怖かった。自分がブスであることも認めたくなかった。
中学校に上がっても、容姿について言われなくなるなんてことは無かった。
メガネからコンタクトにして、止めていた前髪を作って、毎日ヘアアイロンしてから外出するようになって、少しはマシな見た目になれていたと思う。
今までほとんどなかった、可愛いって言葉をかけられるようにもなった。
そしたらどうなったと思う?
小学校の時のアイツブスすぎるだろって、卒アルの写真をdiscordとLINEグループに貼られて通話のネタにされたの、びっくりだよね。
本当に苦しかった、理解出来なかった。
私ってそんなにブスなのかと、頭を強く打たれたような、そんな衝撃だった。そのあとに、ぶすって理由でそんな雑な傷つけ方してもいいと思われてるのかとも思った。
私、自分のこと可愛いって思ってたから、だって私の親は私の事可愛い可愛い言ってたし、なのに全然そんなこと無かった。
過去の私のことを許せなくなったのは、これがきっかけだった。今の自分がどれだけ可愛くたって、可愛くない過去のせいで私はずっと誰かに馬鹿にされるんだと思った。傷つけていい対象だと思われるんだと分かった。
可愛くいることが私を守ることだと思った。
高校に上がってからも、クラスの中心になる子はThe可愛い子ばかりで、第一印象ってほとんど顔だよなって思った。顔が可愛い子は優遇されることが多いんだって気づいた、私の性格はもう歪み切ったと思っていたのに、また事件が起きた。
私は高校に入ってからもマスクを常に付けていた、目元が幅の広い平行二重な為に男子受けが良かったのか、マスクの下を見たい人が居たらしい。お弁当を食べている最中に違うクラスの人がわざわざ覗きに来たのだ。顔を評価されることに恐怖を感じている私はその日からお弁当が思うように喉を通らなくなった、怖くて廊下から背を向けて、すぐ食べ終われる量のお弁当を持って行って食べ終わったらマスクをつけるようにしていた。そしたら中学校が同じだった男の子がマスク下を見に来ていた男の子と同じ部活動だったらしく、また卒業アルバムの写真を晒された。馬鹿にされてた。トークルームを見た時、怒れる気力もないくらいに苦しくなった、このときに心が終わった。
なんかちょうどこの時あたりに匿名の質問箱で、可愛くないのに自分を可愛いと思うなよと書き込まれた記憶がある。
まあ自分を可愛いなんて思ってなかったので、ダメージ喰らわなかったが。
どれだけ私が抗っても、昔の私は可愛くなくて、可愛くないせいで、傷つけられる。
これが苦しくて仕方なかった。
世の中は過去の自分と今の自分を切り離してくれはしない。
だからもう、私は可愛くない私の全てを否定することにした。
本題に戻る。
顔面至上主義が採用されてしまうのは主に若い世代だと思う、そして若い世代のSNSによって広められ、苦しむ人間を増やしていく。
この前こんなツイートを目にした。
ツイートを見つけられなくてリンクを貼れないが、こんな感じの事だったと思う⬇️
まあ、気持ちは分かる。
自身に求める顔面偏差値の高さ故に、相手にもそれを求めてしまう、良い性格の人や自分を愛してくれる人が周りにいても、顔面を主軸とした評価を下してしまう。きっとその人はそれを憂いている。
外見ばかり気にして中身がスカスカな自分を批判して、それでも外見を気にしてしまう。これはもうルッキズムに侵された人間には抵抗できない。諦めるしかない。
突然めちゃくちゃ失礼なことを言うが、
私は、自身の容姿に無頓着そうな人間が嫌いだ。
見ているとイライラする。可愛くなろうと努力しない人間のことを、過去の自分と重ねてしまって、否定したくなる。歪んでいる、自分の心は汚い。
可愛くないのに、現状の自分の評価を正しく出来ていない人間は悪だと思ってしまう。
その人が今まで、容姿に対して変わろうと思えるほどの経験をしないまま生きてこられたことに嫉妬してしまう。
別に私は今のままで可愛いと思える歪んでいない心に嫉妬してしまう。
だから先程のツイートを見た時に、これからずっと容姿に対する悩みを抱えなくてもいいかもしれない人がいることを知って、もっともっと過去の自分を苦しめたくなってしまった。
元から可愛かったらよかった、歪みたくなかった。
自分の性格の悪さに辟易して、勝手な評価をして罪悪感を抱えたくなかった。
可愛いだけじゃダメですか?という最近流行りの歌のワンフレーズに、''可愛いのも才能だと思って優しくして欲しいのです''という部分がある。
そう、かわいいというのは才能なのだ。
もちろん備わっていない人でも、努力することだってできる、けれど才能として生まれ持った人間には勝てない。
苦しい、私はどうやって私を救ってあげられるだろう。
私には才能がなかった、だから羨むことしかできないのに、雁字搦めになって苦しんでいる。
大好きな恋人に、過去の人間に何を言われたから知らないが、僕が君を世界一可愛いと言うだけではダメなのか、僕が可愛いと思っているだけじゃダメなのかと問われて、ダメだと答えてしまうような人間になってしまった。
本当はそうだと言いたいけれど、私はもう誰にも傷つけられたくないから、可愛いでいたい。
もうどうしようもなく、自分の顔が嫌いで、好きで、認めたくて、認められない。
似たような人間が沢山いるだろうと思う。
抵抗したくても出来ない、その人たちももう、傷つきたくないから。
世の中の顔面至上主義たちは、もうきっと救われない。
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