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秩序としての清潔 #2

◆いつからこれほど清潔・安全になったのか

しろくま P183もあんまり共感できなかったですね。汚水が街路に垂れ流され、ひどい匂いが街じゅうに充満していた頃と比較されても、さすがに安全を求める欲求はあるのでは、と思いました。

うえむら P186に1週間の平均シャンプー回数グラフがありますけれど、これはびっくりしましたね。80年代って週3しかシャンプーしてなかったの、みんな、という。これは20年代の人からすると衝撃ではないでしょうか。

テキストP186より

こにし 今は週10回くらいやっているんじゃないですか。

うえむら 日に2回シャンプーしているの?

こにし ぼくは普通に朝晩入りますよ。

うえむら やっぱりそうした方がいいのかな。私はいま朝だけですが、夜寝る前に入った方が睡眠の質が上がるってみんなが言うから、悩んでいるのよね。

しろくま なんか流されているじゃないですか(笑)

うえむら デオドラント革命に引きずられているわ。

◆漂白とダイバーシティ性

しろくま P189あたりまで来ると共感はできました。上流階級の多いエリアやレストランは、「こんな格好ではいけないな」と感じることはあります。とはいえ、わたしはそれぞれが心地よいレベルの清潔さのコミュニティに生息すればいいと思うので、「生きづらさ」までは感じないと思いながら読んでいました。それは困窮しているわけでもないマジョリティ側の意見なのかもしれませんが。

うえむら 正しくゾーニングできていますよね、というくらいの感覚で見ているということね。

こにし 例えば青山、六本木、恵比寿、東京駅の上とかに行こうと思うと、僕ですらちょっと良い服を着ていこうと思いますよね。めんどくせえなとは思いながら、一応用意はあるので。

しろくま スニーカーとかだと「あ、ヤバい」ってなるよね。

こにし その価値観を事前に知っていて、準備がある状態ならばそれほど問題にはならないだろうけれど、それが問題になるとしたら、そういう価値観がない状態でそういう場所に行って、「なぜ他の人がしていることを自分はできていないのだろう」という感じになると、精神的なショックを受ける、カルチャーショックの場になってしまう。

うえむら 「羞恥心や罪悪感」が訓練づけられているとテキストに書いてありますね。

こにし そういう場所に二度と行きたくなくなるだろうな、と。

それと本旨とはあまり関係ないですが、P189の最後にノルベルト=エリアスの話が出てきます。私が社会学を学んでいたときの術語として「圧縮された近代」という言葉がありました。

欧州における典型的な近代化は、産業革命以降100年から200年かけて行われてきましたが、アジアの研究者が主張しているのは、日本や中国や韓国や台湾は、その過程を50年くらいで経験している。韓国の研究者が言うには、短い期間に近代化やポスト近代化を経験したことによって、社会制度の表面は欧州と似通った体系になってきているのだけれど、一方で近代化によって本来は変化していくべき古い価値観や慣習が残ってしまって、独自の発展を遂げると。

そういう概念を日本の中の社交慣習に適用しようとしたテキストなのだろうなと思いながら読んでいました。実際に「圧縮された近代」で検索すると、著者のブログ記事が出てきたりして、ちゃんとこういう本を読んでいるのだな、と。ついでに言うと、ご紹介した記事の落合恵美子は京大文学部の教授です。

「圧縮された近代」とは、近代化からポスト近代化までのプロセスを短い期間で経験したことで起こる欧米と比べて特異な社会状況。そこでは経済的、政治的、社会的、あるいは文化的な変化が、時間と空間の両方に関して極端に凝縮されたかたちで起こる。そして互いに共通点のない歴史的・社会的諸要素がダイナミックに共存されることにより、きわめて複雑で流動的な社会システムが構成かつ再構成される。(中略)韓国は一方で、前例のないほど短い期間のうちに、資本主義的産業化と経済成長、都市化、プロレタリア化(すなわち小作農が産業労働者へと変容すること)、民主化の大幅な進展を経験してきた。また他方で韓国の個人的・社会的・政治的生活の多くの側面には、いまだ明らかに伝統的かつ/または土着的な特徴が見受けられる。

<参考>:落合恵美子編『親密圏と公共圏の再編成 アジア近代からの問い』

うえむら エリアスは社会学では有名な論者なのね。そういえば共産革命の文脈で「二段階革命説」とかありましたね。いったんちゃんと産業革命を追いかけてブルジョワ階級を作ってからプロレタリア革命すべきだ、という立場が現れて、いきなり革命を目指す派閥との間で左派が分裂したみたいな歴史でしたか。

あと最近、ビジネス誌が盛んに「リープフロッグ(カエルのジャンプ)」という言葉を流行らせようとしていますよね。これは「圧縮された現代」かもしれませんが、新興国において価値観や商慣習が追いつかないまま、すごいスピードでデジタル化が進んでいくゆえに、B2Cビジネスが確立されていないにもかかわらずC2C決済が急速に導入されるなど、すごく歪な経済が形成されてしまうという話でした。

こにし デジタルの文脈だと、新興国がよく扱われますね。アフリカや中国でしょうか。「気づいたら最先端」という「リープフロッグ」は確かによく聞きます。

うえむら 「リープフロッグ」や「圧縮された近代」を体験すると、ガワを寄せることをまずみんなが考えてしまう。他人に不快感や威圧感を与えない社会通念が発展して然るべきだという超自我が内面化されてしまう構造がある。特に日本の同調圧力がその伝染に一役買ったということでしょうか。

こにし もともと「圧縮された近代」に超自我という概念は入っていないので、そのあたりは著者のオリジナルですが、確かにそういう捉え方はあると思います。著者自身が精神科医ということもあって、そうしたオリジナリティを出しているのは良かったです。 

◆手放しでは肯定できない清潔な秩序

しろくま P192でまた、第4章のような「子どもが不安感や不快感を思い起こさせる」「子連れが肩身の狭い思いをする」等の意見は、やっぱり東京的だなぁと改めて思いました。最近は先輩ママと話していると、旅行も子連れの多いところに行くようになったと言っていました。ホテルや、その一帯のエリア。そういうところは、逆に子連れじゃない人は居づらいのだろうと思いました。それぞれ暮らしやすいコミュニティで暮らしているのだろうなと思いました。

うえむら さっき言ったように、ゾーニングが適切にされているということでしょうね。確かにアンパンマンミュージアムとかは若者がデートで行く場所ではないものね。

しろくま ホテルも自然とゾーニングされていると。

うえむら トマムでしょ。星野リゾート。

しろくま あーそうです。熱海の星野リゾートに行ったって言っていました。やっぱり子連ればっかりで、みんな泣いているから全然引け目を感じないと言っていて。

うえむら リゾートって滞在だけする人たちに最適化しているのでしょうね。我々は近くの観光地を修羅のように巡って、宿は休むだけの空間ですが、ホテル滞在自体を楽しむ層はそういうところに行くのでしょうね。

しろくま だからホテルの敷地内には庭があるなど、ホテル自体が観光地化されている。くつろげるスペースが多数設けられている。

P193や、全体を通して思ったのですが、著者はホームレスや弱者側に主張が寄っていますけれど、中~上流階級で生きてきていそうな熊代さんが、どういう経験で清潔や秩序が不得手な人に寄った考えになったのだろうと気になりました。精神科医の仕事で会う人にそういう人が多いのでしょうか。

うえむら おそらくそれはあるでしょうね。とはいえ、敢えて腐すようなことを言いますが、5,6章は2,3章に比べるとかなり机上論に寄っていますよね。2,3章のような切れ味があんまり無かった気がします。関心のある分野を、書籍を読んで考えを深めた、という著者像が浮かんでいました。

しろくま 著者自体、医学部を卒業して、中級以上で暮らしてきているのだから、このあたりは頑張って調べたということですね。

こにし P194はジェントリフィケーション(地域における居住者の階層の上位化とともに、建物の改修やクリアランス(再開発)の結果としての居住空間の質の向上が進行する現象のこと。近年のそれは排除的な空間も伴い得る。)という言葉で表せると思いました。

おじさん的には問題点で、清潔ではない繁華街でおじさんが肩を寄せながら牛丼を食うみたいな空間が、今は新型コロナの影響で難しいと思いますけれど、中長期的には消されていく。牛丼屋自体はなくならないでしょうが、再開発等で小汚い繁華街は消されていく流れにあるのがおじさん的には悲しいです。

もうちょっと具体的な話をすると、いわゆるおじさん文化に対する憧れに基づいた街づくりが進むことがある。例えば渋谷のパルコだと、横丁を作ったりしている。

しろくま ああ、分かる。キレイな横丁

こにし ですけれど、そこはおじさんの居場所ではないのですよね。演出された横丁

うえむら おじさんの街からおじさんが消えている。

こにし 完全に消滅させられるのではなく、おじさん成分をなくした状態で残っている。

うえむら ラーメンや競馬など、○○ジョという言葉の中に、おっさん文化からおっさんを脱臭したい願望がにじみ出ている。リケジョはどうでしょう。理系からおっさんを脱臭することが志向されている・・・それはちょっと言い過ぎか。しかしラーメン屋と競馬くらいは思いつきますね。

こにし 立ち飲み屋や、サウナとかですかね。それはマーケティングなのですよね。売っている側からすると客層を広げないと売り上げが伸びないのですが、おじさん需要は長期的に見ると伸びが見込めない。そこで若い女性、男がダメなら女にシフトして、客層を広げていこうと思うと、おじさん成分を脱臭しないといけなくなる。

あともう一つは、渋谷の例だと、渋谷はもともとおじさんの場所ではないですよね。若者を引きつける能力を強化するためにおじさん的な意匠を使っている。おじさんを包摂するためではなく、あくまで若者向けのマーケティングを強化し、より幅広い層を受け容れるためにおじさん成分を利用していて、いずれにしてもおじさんの居場所はどんどんなくなっていき、肩身が狭くなっていく。

うえむら マーケティングですね。お金を使う消費者に街が阿っているということなのでしょうね。女性が消費者のボリュームゾーンになることで、女性に向けたマーケティングをしていく。そのためにこそ清潔さや暴力性の排除が求められていく。つまり消費者としての女性にとって、もっとも消費活動が容易となるように、街の環境が整備されていく。

もう一点の「渋谷がもともと若者の街であるにもかかわらずおじさん成分を導入しようとしている」については、やっぱり若年人口が減っている中で、ボリュームゾーンが10~20代から20~30代へと加齢しているのではないか。そこで「わたしたちも適切に歳を重ねたよね」「街も適切に歳をとってきたよね」という演出をしているのかなと思いました。

こにし それはある気がしますね。

しろくま 確かに原宿は行けないですよね。相対的に若い世代である私たちも、原宿には寄りつけない。

こにし もともと行かないけど、より行かなくなった。

しろくま 確かに。元々若かったとしても、ヒエラルキー的に行かないですけれど(笑)

うえむら 結婚式を原宿で開催した方とは思えない発言だな。

しろくま あれは表参道にカウントしてください。まあほぼ原宿ですけど。

こにし (笑)

しろくま 5章全般で思ったのは、卑近な例だと、夫婦間など同居生活での衛生感覚の違いから生じる問題がある。「清潔さが中心になってきたから不潔な人は生きづらい」という時代になったことで、潔癖側と気にしない側の闘争において、潔癖側の方に説得力が与えられているのではないでしょうか。「気にならないけど」という立場の人は言い返しにくい状況になっている。そういう愚痴は聞くので。

うえむら しろくま家はどちらが清潔側なの?

しろくま わりと合うのでそこは問題ないです。

うえむら ウチは妻の方が清潔側だけど、そこまで極端にコンフリクトはしていないかな。

こにし 女性側の方が清潔側というケースは多いと思いますね。

うえむら それで、清潔側の方が、意見が強くなりがちということになる。

しろくま 清潔側の方が常識的なことを言っている感が出てきて、それも社会の雰囲気を反映している。私はそれほど清潔ではないのですが、やっぱり自分が常識、自分の感覚でいいじゃないと思えるので、社会のマジョリティが清潔側に寄りすぎると賛同しかねるというか、抑圧されている気はします。

うえむら 排除されている側の、マイノリティ側の気持ちが少しだけ分かったということか。

しろくま そうなのですよ。5章全般だとマジョリティ側に属するのですが、こと家庭内の衛生で言うと、マイノリティ側の気持ちが分かりました。

うえむら 「誰かの靴を履いてみる」ことは大事ですね。そして現代の差別は交差的、つまりある側面でマジョリティである人が、別の側面ではマイノリティになるという複雑さを帯びているという言説が、図らずも身に沁みました。

しろくま 家の中だと清潔側の立場の人の方が不快な思いはしているのでしょうけれど。

うえむら まあ、だとしたら自分で掃除したらええやんと思うけど。

しろくま それは私もそう思います(笑)

【第5章終わり】

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