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南仁川に、行った日。

韓国には、高度成長期を支えた労働者などが集まるバラック街があります。たいていは小高い丘や山の斜面にあることから「月に近い街」ということで「タル(月)トンネ(集落)」と呼ばれています。

タルトンネについてのnoteは、こちらに。
https://note.mu/ktnh/n/n2b7f64dc40d9

そんなタルトンネですが、山あいにあるとは、限りません。
労働力が必要な場所に、自ずと出来るものなのでしょう。

仁川広域市南区龍峴洞。
ここは、朝鮮王朝時代から海への玄関として賑わい、築港・開港後は各国の租界もでき、日本統治時代も戦後も、韓国を代表する港湾都市である仁川の、いわば南西端。日本統治時代に半島内陸からの鉄路がここまで敷かれ南仁川駅が出来、港の「南の接点」となっていた場所です。

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(盛業中の南仁川駅・画像はナムウィキより)

大きな港、内陸からの鉄路、それが交わるところ。
荷貨物が集まり、鉄路から船に積み替えされ、その作業に人が集まり…。こうして近代化を支え、そして高度成長期には港湾周辺に集まった工場・倉庫群で働く人たちを支えた舞台のひとつが、南仁川駅界隈でした。現在は地下鉄として再開業した水仁線の崇義駅が、そこにあります。

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(再開発を待つ南仁川駅跡に残存する倉庫・2014年5月)

近代化を支え、そして高度成長を支えた舞台には、やはり「裏側」があるもの。港のすぐ近くに、それは、ありました。

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旧南仁川駅の背後、元の線路に沿うように伸びる宅地。
タルトンネ、月に近い町と言うには、なだらかな場所に、それはあります。

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南仁川の街は、日本統治時代は朝鮮半島内陸の農産物、仁川の海で造られる塩などを一時貯蔵し、日本の本土に送り出す場所として賑わい、戦後の高度成長期も鉄道と港湾の接点として多くの物資そして労働力が集まった場所。それに伴う町工場的な産業の集積もあり、韓国と世界を結ぶ港の、まさに裏側を支えたエリア。そういうところに、月の町も出来るのですね。

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CCTVが見守るこの町に、棲む人はもう居ません。

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棲む人が居なくなっても、そこに路地はあり、人を、誘おうとします。

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棲まわれることのなくなった、家。
開かれた扉は、ここの記憶を、見ろということ、か。

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