神話と西洋的マゾヒズム 『オッペンハイマー』感想(ネタバレあり)
クリストファー・ノーラン監督の映画『オッペンハイマー』を見た。先輩芸人の森田GMさんから「見たら草山の感想が聞きたい」と言われたのだが、LINEで送るには文章が多くなりすぎるので、いっそのことnoteに書いてしまおうと思った。
たぶんかなりトンチンカンで変なことや、逆に「そんなことその辺の考察ブログに書いてるわ!」という初歩的なものも書いていると思う。あんまり映画や漫画の考察は読まないようにしているのでご了承願いたい。
IMAXで見たほうがいい
まずノーランが「この映画はとにかく核爆発のシーンを大画面で見てほしい!!!」と思ってたら申し訳ないのでIMAXで鑑賞した。これは正解だったと思う。この映画の静と動を堪能できたのはよかった。
開始数分でぶっ放される反・西洋/反・古典のメタファー
映画が始まると、オッペンハイマーがたしなんでいる芸術が映し出される。エリオットの『荒地』、ストラヴィンスキーの『春の祭典』、そしてピカソ。彼が多種多様な芸術に精通していたのは事実であるが、この文学・音楽・絵画をわざわざ登場させて、それが何の意味もないということはありえないだろう(あのノーランなのだから)。
エリオットの『荒地』はかなり難解な詩で、内容もつかみどころがなく説明が難しい。20世紀の西洋社会を、古典からの引用やオマージュをちりばめながら綴った作品で、ジョイスの『ユリシーズ』も似たような読みづらさと難解さを伴っている。この「古典・神話からの引用/横すべり」という構造が一つのキーワードになる。
『春の祭典』は初演時に暴動が起きたという都市伝説も残るバレエ作品で、異教の儀式をテーマとする前衛的な作品である。作中で登場する『バガヴァット・ギーター』もそうだが、ユダヤ・キリスト教的道徳とその他の宗教世界という二元的視点も随所に見られた。
ピカソのキュビズムは、古典主義との対比ともとれる。ロマン主義や印象派の絵画のほうがその意味合いが強いかもしれないが、以上の三つがわざわざ出てきた時点で「古典や神話との対比」のメタファーに違いないと思ってしまった。
冒頭、オッペンハイマーの学生時代に、教授のブラケットを毒リンゴで殺害しようとするシーンが挿入される。これは彼の(真偽の定かではない)エピソードではあるのだが、このタイミングで「リンゴ」が出てきたら意味を勘ぐってしまう。リンゴは旧約聖書においてアダムとイブが蛇にそそのかされて食べた「知恵の実」であり、ニュートンが万有引力を発見したエピソードにも登場する「古典力学の象徴」でもある。リンゴに毒を注入する行為は、のちに原子爆弾という恐怖を作り出してしまうオッペンハイマーの知恵から生まれた罪と、彼が量子力学(=非古典力学)へと進むことの鮮やかな対応となっている。
そのほかのメタファー
この映画にはあまりにも聖書に符合するモチーフが多い。たとえば主人公のロバート・オッペンハイマーは原子爆弾を生み出し、のちに公職追放される。これは旧約聖書のカインのようだ。兄カインは弟アベルを殺し、エデンの東に追放される。カインは人類で最初の殺人者であり、最初に嘘をついた者である。偶然にもロバートは兄で、フランクという弟がいる。
またトリニティ実験で閃光が走るシーンは、さながらソドムとゴモラの街が火によって焼き尽くされる一幕のようだ。欲深き人々によって堕落したソドムとゴモラを怒った神が滅ぼそうとしたとき、ロトとその妻は逃げることを許された。しかし「決して振り向いてはならない」という言いつけを破った妻は塩の柱にされてしまった。トリニティ実験のときに「丘に光が反射するまで振り向いてはいけない」というセリフがあったが、偶然とは思えない。
今作は実在の科学者たちや政治家、軍人たちによって史実通りにストーリーが進んでいくのだが、その中で自然に、あまりにも自然に聖書のメタファーが挿入される。
西洋的マゾヒズムと寸止め
マゾヒズムが盛んなのは西洋である。より自分を厳しく律する宗教においてその傾向が強い。「ごめんなさい」を快感に変える行為だとすれば、マゾヒズムは個人の宗教的背徳から社会の集団的自省までを幅広くオカズにできる。告解・懺悔の快楽と、行き過ぎたヴィーガニズム(動物を殺してごめんなさい)や自虐史観(こんなひどい国でごめんなさい)のもたらす倒錯的エクスタシーは、主語が"わたし"なのか"わたしたち"なのかの差しかない被虐嗜好と捉えることができる。
作中で共産主義活動に身を投じる人々は富裕層の家庭に生まれた者もいた。実際オッペンハイマーも裕福な家庭に育っている。苛烈な反省とは、余裕のあるものにしかできない自慰行為としての側面がある。資本主義を批判できるのは、それを憎む者か、それに飽きたものである。憎むことは簡単だが、飽きるには資本主義の恩恵をいったん享受するほかない。その意味で、オッペンハイマーが非ヨーロッパ文化的背景から自らを律する言葉を紡げるのは、知産階級しぐさという気がしなくもない。
彼はトリニティ実験に向かうまでに様々な罪にさいなまれる。愛したタトロックの自死、そして大量破壊兵器を生み出してしまうことの道義的責任。マゾヒスティックな偽りの懺悔と、迫りくる破滅をともなう赦し。これらがあがなわれる瞬間がもしもあったとするならば、それは、トリニティ実験が失敗したときだったのだろう。莫大な予算と年月をかけて完成した爆縮装置が不発に終わっていたら、オッペンハイマーは地位も名声もすべてを失い破滅していた。この破滅こそが彼の真の贖罪であったはずなのに、実験は歴史の示す通り大成功した。この瞬間、オッペンハイマーは永遠にあがなわれることのない罪の牢獄に閉じ込められたのだ。
ロスアラモスに核の火が灯ったシーンは、堕落した愚者の住むソドムとゴモラに火が放たれた瞬間の再臨である。しかしオッペンハイマーの身は焼かれず、永遠に燃える罪を背負ったままの存在になってしまった。
ただトリニティ実験のところで映画が終わると「プロジェクトX ~原爆を作った男たち~」みたいなオッペンハイマーすごい的内容になってしまう(というか、そう読み解く人が多い)ので、戦後のストローズとの確執を描いたのだと思う。あの部分は正直冗長だったが、つまりオッペンハイマーの「寸止めプレイ」パートなのであって、永遠に続く責め苦に耐えながらアメリカの国家的代理マゾヒズムに身を投げるしかなかったのだ。
オスカー・シンドラーと杉原千畝
戦争を題材に「正しい」エンターテイメントを描こうと思うと、どうしてもマゾヒスティックに自らを裁くか、過去の罪を棚に上げてサディスティックに掲揚するしかなくなってしまう。
リトアニア領事館大使として難民にビザを発行した杉原千畝は戦後あまたの誹謗中傷に晒されたが、今や「東洋のシンドラー」と言われて英雄視されている。散々斬りつけておいて「お前すげぇなあ〜」とナショナリズム・オナニーをカマすのはかなりサディスティックだと思う。そういう日本のシコリスト(しかも被爆当事者の末裔!)たちは、オッペンハイマーが投獄された(演出上避けられない)西洋的マゾヒズムをどのように評価す"べき"か、私には分からない。
スピルバーグの『シンドラーのリスト』において、オスカー・シンドラーはオッペンハイマーとは違い最終的に私財を使い果たして破滅の道をたどる。シンドラーもオッペンハイマーも、端正な顔立ちでプレイボーイで野心家だ。シンドラーは殉教し、しかしオッペンハイマーは殉教する機会すら与えられなかった。これをして「広島・長崎の被害者への配慮が足りない」とするのは、歴史の審判を二度刺すこととなる。
でも人殺しだろ
とはいえ、やはり科学者も人殺しとしてのペルソナを持つのであって、そういう描き方もあったのではないかという批判はありうる。包丁にも包丁職人にも罪はないが、人を殺したくて仕方ない連中に包丁を渡したらどうなるか考えろアホ!という話は通用する。
かつてNHKで放送された『フランケンシュタインの誘惑』という番組で、トリニティ実験が特集されたことがあった。その番組の内容をいまだによく覚えている。トリニティ実験で核爆発を目の当たりにした科学者たちは沈黙し、帰りの車内でこう言ったそうだ。
「オッピー、これで俺たちはみんなクソッタレだよ」
『オッペンハイマー』では科学者たちが実験の成功を祝福した。どちらが真実なのかは分からない。
のちに水素爆弾を開発するエドワード・テラーは核の炎を見たときに「なんだ、この程度か」と言ったというエピソードもある。『オッペンハイマー』でも、爆発を見て彼はニヤリと不敵な笑みを浮かべていた。その時、罪を知ったのは誰なのか。真実は分からないが、オッペンハイマーだけがその十字架を背負ったわけではなかっただろう。
アホに兵器を渡したらどうなるか考えろアホ!という方向にデフォルメされたのが『博士の異常な愛情』なのだろう。この映画は軍人も政治家も科学者も等しくアホ、というブラックコメディとしてつくられているのだが、それは原作を真面目に映画化したら面白くないとキューブリックが判断したからだそうだ。
「オッペンハイマーの半生を史実通りに映画化したら映像美と神話的アイロニーをたくさん差し込めました」
なるほど。美しい。でもよ、スカすんじゃねえよアメリカさんよお、と思った。正直ね。やっぱり『300』のペルシア戦争や『首』の本能寺の変みたいな距離感では、あの歴史的事実をまだ受け止められない。
オッペンハイマーは十分罪を背負い、ザクザクと痛々しく描かれている。しかし同時にとても美しい映画であることが、まさに核分裂の閃光を直視できないように、歴史の白色を偏光に分けている。しかし、ノーランらしい、考察がはかどる映画だなと思ったのも事実。以上。
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