俺はそんな選択などしていない

我々は選択に責任をもつことになっている。

累犯障害者』という本を読んだ。様々な理由によって犯罪を繰り返してしまう障害者について書かれたものだが、その一章に「反省とは何か」という一節がある。裁判や、服役中の仮釈放の審査においては「反省・改悛の度合い」が重要視されるのだが、障害者の中には反省というもの、もっと言えば「反省を外界に表現すること」が理解できない人がおり、そうした人々が不当に重い量刑や刑期をこうむることの問題提起がなされていた。

たしかに反省というのは誰にも推し量ることができないはずの内面を、表情や言語表現によって発露するという定型発達者のプロトコルである。逆に言えば、誰にでもわかる形で(それが実在するかはさて置いて)良心の痛みを具現化するのがヤクザのエンコ詰めといえよう。そして反省が重要視されるのは、するかしないかを選択できるものだからだ。反省できる状況で反省していないことをあえて表明することには、それ相応の責任が付与される約束になっている。我々が暮らす世界はそうしたプロトコルに支配されているのだ。

これは挨拶のようなマナーにも言える。友好のあかしに挨拶をすれば挨拶を返す。挨拶をしなかったり無視することは敵意を示す。それは挨拶をするかしないか、誰でも選択できるものということになっているからだ。

少し前に「草山さんのインスタのおすすめって何が表示されてるんですか?」と聞かれたことがあった。そこで開いてみると、なんと水着の美女や映えるグルメの写真が画面いっぱいに表示された。「草山さんもこういうの見るんすね~」と笑われたが、身に覚えがない。私のインスタは「目力看板」と呼ばれる(というか勝手に呼んでいる)看板の写真置き場として使っているので、ほとんど他人の投稿を読んでいない。知り合いの芸人の投稿にたまにいいねをするくらいだ。

おすすめ欄は私のいいねの情報を収集・反映しているのだろうが、それなら芸人の投稿がたくさん表示されるはずだ。しかし実際はいかにもインスタ然とした画像が表示され、「こういうものを選んで見ているから、おすすめもこうなっているに違いない」という濡れ衣を着せられた。つまり私の選択に基づいて形成されていることになっているおすすめ欄は、実際には私の選択を積極的に忘却している。ビッグデータは人間の因果を解析するものであると同時に、因果をブラックボックス化する方向にも働いている。

『奇書の世界史』の三崎律日氏が先日ポストしていた問題も同じだ。我々はフィルタリングをしていなくとも、フィルタリングされた側はその意思を感じ取る。

あまりこういうことを言いたくないのだが、YouTubeを見ていると増毛と包茎手術の広告が頻繁に表示される。そのたびに低評価を押し、報告フォームから関連性が低いことと内容が露骨で不愉快であることを報告していたのだが、一向に効果がないのでやめた。ビッグテックは私の意思を汲んで暮らしを良くしてくれるのかと思ったが、そうではないらしい。私の選択を歪め、カスのような商業に合流せよと洗脳するばかりだ。

これは親鸞の唱えた悪人正機説と構造”だけ”が似ている。この世には仏の御心も善悪も分からない「悪人」と、自ら善行によって往生しようとする「善人」がいる。しかし本来すべての衆生は何が善行か判別できない悪人であるため、悪人の他力本願こそが仏にすべてを任せる正しい姿であり、じつは善人こそが仏の本願力を疑っている、というわけだ。

「XAI(説明可能なAI)」という言葉が生まれるほどに、高度に発達した人工知能は内部で何が起きているか分からなくなっている。私はGAFAMの人工知能に選択や嗜好を伝えれば適切な広告と快適な商品に囲まれて極楽往生できると考えていたのだが、実際には膨れ上がった邪悪な仏性に身をゆだねることしか許されていない。

『ノーカントリー』という映画にアントン・シガーという殺し屋が登場する。彼は依頼されたターゲットはもちろん、その道中で自分の顔を見た人間も次々に殺害していく。しかし「コイントスの賭けに勝ったものは殺さない」という謎のルールも持っている。作中では彼の機嫌を損ねたガソリンスタンドの店主が表裏を的中させて生き延びた。

公開当時、彼を「死神」と表現した映画批評がたくさんあったが、同時にシガーは「殺したいから殺す」という行動を決してとらない点で、ある意味で敬虔な予定説の信奉者であるともいえる。良心の呵責もためらいもなく人を殺していくが、彼は「殺される人間は、それに相当する選択をしたから殺されるのだ」という理由をずっと探している。映画の終盤、ターゲットの妻であるカーラにコイントスを迫り、カーラはこう答える。

「決めるのはコインじゃない、あなたよ」

そのあとカーラがどうなったのかは描かれない。

現代はシガーにあふれている。「君が選択したのだから」という理由で幸福の弾丸を額に打ち込む輩ばかりだ。仏像は「衆生の声を聴く」という意味で基本的に耳が大きく作られるのだが、人知を超えた技術には「俺はそんな選択などしていない」という声を聴く耳がついていない。こっちのほうがよっぽど死神だ。

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