多様性の中で生きる僕らの音楽のスゝメ⑦
お時間ございましたらお付き合い下さい。
Jポップの正体
日本という国はことサブカルチャーという場面において、とても贅沢に事を運べる土壌であると実感する。
こと今まで論じてきた[音楽]に対してもそれは同様に作用する。
日本人の奏でる音楽として、今一度、[Jポップ]という音楽を考える。
果たしてJポップとは何なのか?
それに対する答え合わせとして語源としてのJポップの歴史ををWikipediaより抜粋する。
とあり、語源を遡ればマスメディアの造語であることは判明し、従来の音楽のルーツに即していないジャンルであることは明白である。
イメージで言うと所謂近年の邦楽と呼ばれる音楽や目新しい音楽を[Jポップ]という箱に無理矢理詰め込んだようなものだ。
お茶の間のTVやラジオから。街中から。お手持ちのポータブルデバイスから。友人と行くカラオケはおろか他人のずさむ鼻歌から…生活の中において音楽というものは多分に存在する。しかもこのJポップという言葉が生まれた時期は金のなる木としても注目されていた時期でもある。メディアにとっては停滞に向かう歌謡曲の世界から脱却する正に都合の良い魔法の言葉であったことは容易に想像できる。
メディアは多様な戦略を唄い"商品"をねじ込む。あたかも商品が正しいかのように。
但し、これらの商品は凄まじい勢いで"消費"されていく。[Jポップ]には他の1ジャンルのような[ルーツ(根)]が存在しないからだ。
Jポップというジャンルは他のジャンルと違い感性が積み重なり1ジャンルになったものではなく、経営と経済の[積み上げた歴史]というもので成り立っている。
前者が天然物である、とするならば、後者は合成物(キメラ)である、とも言えるだろう。
Jポップとは、キメラである。
そして我々はそれを聴いて育った(又は生活してきた)土壌である、という前提を踏まえてここからは結末まで話を進めていこうと思う。
次回へ。
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