舞台装置としての「村」 ~拓かれた密室空間への恐怖入門[オチあり]
近年、イマーシブ体験(完全没入体験)型ミュージアムやアトラクションの需要が高まっている。
古くはリゾートホテルやらツアーパックのパッケージもそれと言えるのだが(人里離れた大自然の中で緑と触れ合う癒し、とかね)、最近はそれらとはまた違うもので。
現代のイマーシブ体験型の特徴としてBGS(バックグラウンド・ストーリー/背景情報)を素地とし、その物語の中へと没入して自分も物語の一部(他参加者から見たら舞台パーツの一つでもある)と成り得るもので、仕掛けも非常に凝ったものが多い。
選べる種類も豊富になり、密室ホテルに泊まり掛けで脱出を試みたり、殺人事件の嫌疑をかけられながら推理する容疑者のRP(ロールプレイ)をしたり、ゲームやアニメの世界に迷い込んでみたり…と枚挙に暇が無い。
従来のこういったエンタメに対して、我々観客の立ち位置はあくまで「視聴者/鑑賞者側」で、単なる観測点に過ぎなかった。
だが、イマーシブ体験型アトラクションでは我々は「観測点→当事者」へと立場が変わり、見ているだけの物語や世界に干渉ができるようになった。
この流れを第三者視点で見ていて、面白いことになっているかも…と思う点がある。
というのも、実は小規模な運営者サイドにとっては大きなチャンスが潜んでいるのではないか? と考えているからだ。
無論、資本力の大きい企業なら技術力や会場に資金を投入できる。
だが、例えば「密室謎解き」又は「マダミス(マーダーミステリーの略)」ともなれば謎解きの面白さに知恵を絞れば良く、集客も逆に少人数の方が双方にとっても都合がとても良い。
上記の理由から 資本力=勝ち目 のパワーゲームでは片付けられず、企画力さえあれば小規模運営でも充分太刀打ち可能なのでは…と思わせてくれる、とても夢のある話だ。
ただし参加者の身の安全が保証できれば、の話だが。
様々な才能をもつクリエイターが老若男女問わず跳梁跋扈している世界的にも希有な国、日本。
その方々が手を組めばもっと新しいイマーシブ体験を持ち合わせた面白そうなもの、できそうなんだけどなぁ…。
━っと、今回はこの話じゃなかった。
蛇足になり過ぎたのでそろそろ本題に移ろうと思う。
本題
村、こわい(´;ω;`)
イマーシブ体験型コンテンツには実に沢山の世界が待っている訳だが、もしその立場になった時に「ちょっとこれは個人的に体験したくない設定なぁ…」と思うシチュエーションがある。
それはタイトルにも出ている「閉鎖的な村(※)」というシチュエーションだ。
なぜなら、いざ自分が巻き込まれでもしたら、その瞬間から参加者の身の安全の保証のないどころかBAD END一直線しか考えられない(※)のでとても怖いからだ。
(※ どちらも多大な偏見である 笑)
ちなみに自身が「閉塞感のある村」という舞台装置から連想するのは
…とまぁ、この辺りか。
いずれもこの記事を村出身者の人間が見たら鎌持って追っかけてきそうなレベルである(ごめんなさい誇張表現です)。
だが、ここまで偏った視点が出揃うのも、それこそ様々な作品でお目見えするぐらいに作品舞台としての魅力があるからである。
人と人が交わるからには確実に人間ドラマが生まれる。
その中でも「村」が舞台だと、登場人物の行動範囲が限定されるので自然と「交流が濃密となっていく様を構築しやすい」のも要因だと思う。
扱うジャンルがヒューマンドラマや恋愛系ならこちらとしても大歓迎なのだが…。
上記の理由からスリラーやサスペンス、果たまたパニックやホラー系統ととても相性が良いため、作品の舞台として選ばれやすいのも事実だ。
百聞は一見にしかず、という言葉もある。
というわけで、個人的には絶対体験したくないが、外側から安全に観ることのできる「村を舞台にした作品」をここに幾つか挙げていこう。
村こわい入門(邦画)
近年の巣籠もり需要の際にインターネット上で怪談・都市伝説界隈は大きくスポットライトを浴びた。
それに伴い都市伝説を題材とした映画が作られ、軒並みスマッシュヒットを上げている。
巷や界隈で有名な都市伝説の中には「村」が関連するものも幾つもある。
それらの話はそれぞれが独立した話なのだが、大手制作会社ともなるとやはり市場を独占したいらしく(※)、別個の話をシリーズ化し、独特の世界観を作り上げた。
(※ 嘘です。実は制作段階から海外からの期待値もとても高い作品たちである。)
それが東映:恐怖の村シリーズである。
犬鳴村(2020年)は都市伝説界隈で人気となった犬鳴村伝説(実は創作物である)と、人気心霊スポットである福岡県の旧犬鳴トンネルの二つを核としたお話。
樹海村(2021年)は富士の青木ヶ原樹海を舞台とし、掲示板サイトから広まった怪談「コトリバコ」の二つを織り交ぜたお話。
牛首村(2022年)は北陸の心霊スポット、富山県の坪野鉱泉にあるホテル坪野と、こちらも有名な都市伝説「牛の首」を掛け合わせたお話。
それぞれどの作品にも「村」が出てきて、結局しこたま酷い目に合うのだが(言い方w)、やはりそこはJホラーの旗手が集まっている作品郡なだけあって、とても後味の悪い悪意と湿度に包まれた仕上げ方は圧巻の一言に尽きる。
また時代は遡るが、邦画で「村」を扱った作品として大変重要な作品として、「東映・松竹・東宝」という三大映画会社それぞれが映画に着手した、金田一耕助シリーズの中の人気作品、八つ墓村(それぞれ東映: 1951年・松竹: 1977年・東宝: 1996年)は外せないだろう。
今作品では過去から延々と村に続く祟りや、その祟りを信奉する村人心理すらも我欲のためだけに利用する、人間という生き物の浅ましさが詰め込まれている。
(※余談だがこの作品は制作した映画会社によって解釈のズレが存在する。
時間がある時にその違いを見比べてみるのも一興だろう。)
八つ墓村の話のベースには岡山県で実際に発生した津山事件(津山三十人殺し)があり、この事件はあまりにもセンセーショナルが故に様々な他作品にも多大な影響を与えてきた。
そしてその影響下の中には、やはり村を扱った作品として外せない松竹の映画、丑三つの村(松竹: 1983年)がある。
閉鎖的な村や関係性、そこに時代背景が絡み付き、歪(いびつ)を形成する様と事実を下敷きとした狂気は正にフィクションの醍醐味なのだ…が。
もう単純に、村、こわい(息も絶えだえ(´;ω;`))。
ちなみに「村」という舞台装置に趣を見出だしているのは日本の作品だけではない。
当たり前だが海外の作品にもそれは当てはまる。
ただし、全体的に何となく邦画の雰囲気とは違って思える。
感覚的に言うと作品内に流れている空気感や登場人物、現象にに、弱冠ながら諦めにも似た乾いた風や空気感を感じる部分がある。
それは国土の問題や人種や宗教や歴史、それぞれの権利の問題や文化の違い等、諸々の理由で元々人口密集度が低い土地を選択し、そこに住まう人々も多いのも理由の一つかもしれない。
村こわい入門(洋画)
そもそも論としてボク自身「閉鎖的な村」に対してそんなに思いを馳せていなく、「単なる舞台装置/設定の一つ」としか感じて来なかった。
だが、そんな人間の感性を一発で塗り替えた恐ろしい程の威力を持つ映画が存在する。
それがデンマークの映画監督、鬼才ラース・フォン・トリアーの作品、ドッグヴィル(Dogville)だ。
時代はアメリカ大恐慌時代。
ロッキー山脈にあるドッグヴィルという鉱山を母体とした閉鎖的な村を背景とした、道徳への尊厳破壊と人間の露骨な愚かさを描き、それらを徹底的に理解させる不条理かつ生理的嫌悪感溢れる物語。
この映画を観て「閉鎖空間や権利を与えた時に、人間はそのものの本性を表す」と考えた時に、「閉鎖的な村」という舞台装置というものは、余程に的確な選択肢なのだなぁ、と思う。
そういえば説明に「不条理かつ生理的嫌悪感溢れる物語」なる言葉を使ったが、全く別ベクトルな「不条理」と「村」を扱った映画がある。
ファブリス・ドゥ・ベルツ監督の「ベルギーの闇三部作」と謳われた作品の一作目、変態村(Calvaire)である。
こちらも村が舞台にはなるが、内容は…さておき(※)。
迷い込んだ村で役割を押し付けられ脱出も叶わず、村内での常軌を逸した苛烈な扱いに主役が抵抗を失っていく不条理の様は削られるものがある。
(※ 視覚的ではなく内容的グロテスクなので視聴する際は注意。)
どうやら閉鎖的な村が舞台の場合、その村にとっての「来訪者(異物)」が村の平穏にさざ波を起こし、やがて大きな騒動に発生していく、というシチュエーションは王道らしい。
だが同時に、「外部の人」が厄を持ち込む、という思想に納得させられている自分もいる。
もしかしたら想像以上に、日本人特有の「おらが村」思想が自分自身の内部に食い込んでいるからなのかもしれない。
村こわい入門(アニメ)
閉鎖的な村に認められ、受け入れられていくことの安心感。
そして村八分にされていくことへの恐怖と孤独感。
そんな「閉鎖的な村あるある」を判りやすく描けている作品にひぐらしのなく頃に(2006年~※)がある。
舞台は牧歌的な架空の村落である1983年の雛見沢(ひなみざわ)村。
話自体は村に纏わる伝統因習と連続怪死/失踪事件を軸にしている。
過疎が進んでいる状況/変化を拒む土地柄/村を離れられない理由(ネタバレのため説明不可)が故、舞台装置としての「閉鎖的な村」と考えると完璧に近いのは大きな特徴だ。
閉鎖空間から「逃げられない」状況下の中、様々な常軌の通用しない、尚且つ土地や個人の独自ルールを強要される世界。
ここまでそんな恐ろしい世界観を持つ「閉鎖的な村」作品を微力ながら紹介してきたつもりだ。
だが、こうして記事を書いている/読んでいる間にも、クリエイター達は逃げ場の無い「村」を制作し、視聴者である我々を追い込むが如く恐怖を産み出し、提供せんと企む。
━そして、時は2024年5月。
また「新たなる恐怖」、が生まれた。
村、すっげぇこわい( ;∀;)
事の起こりは2024年初頭。
ある男が一つの「企画」を立ち上げる。
その企画とは日本産のコンテンツをエンターテイメントとして昇華させるプロジェクトでもあり、また一つのジャンルを海外進出をも視野に入れたブランディングを施し未来への活路を見出だす、新たなる挑戦でもあった。
舞台となるのは山合に位置する独自の因習に支えられる外界から閉ざされた寒村、神奈川県馬当(まあたり)村。
これは番組収録と称し、何も知らず村へと連れられた3人の男+ヒッチハイクで乗り継いでまで収録に参加する1人の男が体験した、とても奇妙な一日の記録であり、疑心暗鬼が互いの身を滅ぼし合うヒューマンドキュメンタリーである。
…いやー。
佐久間宣行のNOBROCK TV、面白いよね。
村、とてもこわーい(笑)。
…冗談半分で記事に持ち込んだ。
だが、半分は本気である。
このプログラムは番組の性質上、笑いに昇華しているだけで、舞台である「村」にポイントを定めると、先に用いた「閉鎖的な村の恐怖のポイント」が実に盛り沢山に詰め込まれているのだ。
「バラエティは猛毒」とは良く言ったものだ。
笑いと恐怖は紙一重で、笑いとは一皮剥けば実に狂気であり、それらを視聴者に悟られないようにプロフェッショナルが本気で制作しているという部分に「恐怖の真髄」を見た。
終わりに
言語は通用するのに一般常識が通用しない。
何かを一心不乱に盲信・狂信する姿。
空に境界は存在しないのに、その場から出られない/逃げられない。
人間の関係や心理の迷宮や裏側。
「得体の知れない何か」との遭遇。
「村」という設定にはこういった「掴めそうで掴めない何か」の痕跡が無数に散らばっている。
人々はそこに「恐怖」し、その掴めそうで見えない何かを「確認」することで安心感を得ようと、そういった作品に惹かれていくのかも知れない。
そしてその行為は「未来に相対する姿」とよく似通っている。
だからクリエイターも視聴者もどこかでその見えない「カタルシスの代替」を得られることに魅了されているのだろう。
…そういえば、村の構成員は人間で、そういった村を舞台とした作品を作るのも人間。
やっぱりいちばんこわいのは、にんげn_:(´ཀ`」 ∠):_