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8月15日は何の日か

※この文章は、約13年前に、「終戦記念日を知らない日本人が増えてきたこと」を実感した私が、授業で紹介するために書いた文章です。

八月十五日は何の日か

 私の祖父は普通のおじいちゃんだった。
 小学校から帰ると田んぼから帰ってくる頃で、おばあちゃんに、おい風呂沸かしてくれと言い、そうでなければ夏は「アユかけ」のために川を見に行った。橋のらんかんからしげしげと川で泳ぐアユを見つめるのである。帰ってくると天気予報を見、低気圧が近づいているのを確認すると、ニンマリしていた。釣り人は、晴天より雨の降る気配を待っているのである。川に行ったきりなかなか帰ってこない祖父は、本当によくおばあちゃんを怒らせていた。
 私はというと、行儀が悪いと叱られ、親にそんな口をきいてはバチがあたると脅され、ショートパンツはあかん、長いのにしろとぶつぶつ言われた。反面、酔っ払って帰ってきたり、パチンコの景品のチョコレートをくれたり、孫とのチャンネル争いに敗れてすねたりしていた。大相撲中継をこよなく愛する祖父と、私の妹が繰り広げたチャンネル争いの数々は、いまだに親族一同の語り草である。

 そんな祖父も戦争に行っていたらしいと知ったのは、かなり幼いころだった。
 墓が二基ある。一基には「勝山 源」とあり、もう一つは先祖代々のものである。
 お仏壇には遺影が三枚あった。私のひいおじいちゃん、ひいおばあちゃんのものと、軍服を着た「勝山 源」氏のものである。
 白黒の軍服姿の写真がこわかった私は、お仏壇のある部屋へ行くのもこわかった。なんであるのよ?と思っていた。
 また、三月の何でもない日に、おばあちゃんが必ずお赤飯を用意するのだ。今日は何の日なのよ?と思っていた。
 そんなこんなで、祖父を含む七人きょうだいのうち、大正生まれの二人だけが戦地におもむき、後に入隊して先に南方の最前線に送られた弟の源さんだけが戦死し、祖父は終戦の翌年の三月に雪の中を帰ってきたことを、いつからか知っていた。
 祖父は大相撲が好きで、時代劇が好きで、国会中継が好きだった。わからないことがあると、いろいろよく話してくれた。
 それなのに、三月のお赤飯の理由は、おばあちゃんから聞いた。
 六年生の時、広島に修学旅行に行くので、家の人に戦争当時の話を聞いてくるという宿題がでたけれど、「おばあちゃんに聞きなさい」と言われた。その広島で、私は原爆資料館の一階部分の展示しか見ることができずに帰ってきた。父は仕事から帰ってくるなり、「原爆資料館どうやった?」と根掘り葉掘り聞きだそうとした。私が涙目になっているのにも知らん顔だった。ただ祖父が「ツヨシ!ええかげんにせい!」といってくれた。
 娘の修学旅行の話を聞きたくない父親はいないと思うが、祖父はどうだったのだろうか、今となってはわからない。
 とにかく祖父は、自分の戦争体験というと、だんまりだった。

 私が大学二年の夏、弟の高校の国語教師が新聞に載った。祖父母の戦争体験を生徒に聞き取らせたという記事である。私は心中おだやかでなかった。今まで語らなかった祖父が、本当に語ったのだろうか。
 帰省して話を聞くと、語るわけにはいかないからと、体験を書き綴ったらしい。そしてそれは、四百字づめ原稿用紙二十七枚の大作で、地理に弱い弟のために別冊地図つきであった。弟は、祖父の怒涛の筆致を読むだけで大変だったろう。
 祖父七十八歳。戦地から復員帰還して五十数年後のことであった。

 しかし、それから平成十八年十月に亡くなるまで、再び祖父が語ることはなかった。

 祖母が言う。
「亡くなるちょっと前から、夜中によう、うなされてなあ。わたし、びっくりしてもて。たぶん、戦争の夢やったんやろなあ思うんや」

 祖父は生きて帰り、マラリヤの熱に苦しみながら仕事をし、子を育て、孫を抱き、私の産んだひ孫も抱いた。
 生きて日本へ帰り、自分の戦争を語った水木しげるのような人もいる。
 生きて日本へ戻り、記録集めに奔走しながらも、自分の体験を語らずに亡くなった二人の祖父。
 戦地で死んだ人。
 内地で空襲になすすべもなく、ひもじい思いをしながら死んだ人。
 生きたいと思いながら死んだ人。
 死ぬ命だったと思いながら生きた人。

 死んだ人は、生きた人は、
 のちの世を生きる私たちに、いったい何を伝え、残したかったのだろうか。
 八月十五日、終戦記念日は、「私」につながる過去を見つめ、未来を考える日だ。   

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