説明責任は大切だが、1つ1つ懇切丁寧に答える必要はない
かつての私は、事業運営という立場としてスタッフ1人1人に懇切丁寧に説明することが大切と考えていた。
聞かれたことには1つ1つ時間と場を設けて詳細に回答していたし、なるべく分かりやすい資料や細かい補足文なども作成して周知していた。
しかし、あるときから、そこまでする必要はないと気づいた。最低限の説明責任さえ果たせば、まぁそれで良しと考えるようになった。
もちろん、説明不足があった場合や相手に誤解を与えた場合はすぐに対応するし、不明点をがあれば適宜回答する。但し、以前ほど細かくは言わないようになった。
と言うのも、多くの人は細かく伝えたところで、ほとんどの場合は「自分には関係ないだろう」と考えているからだ。いくら細かく説明したところで、分かりやすい資料や詳細な補足文を用いたところで興味がないのだ。
意外かもしれないが、これは給料や時間外といったお金に関わることや、休日や業務内容などの労働条件ですら同様である。
これら労働者ならば誰もが興味を示すテーマこそ、細かく説明しすぎないほうが良いと気づいた。
というのも、お金や労働条件に関わることは、一見すると分かりやすいテーマであると思われるだろうが、これらはその職場だけの話ではなく、実際のところ様々な法律が絡んでいるからだ。
雇用されている方の中には、このような法律を華麗にスルーして「自分の給料の金額はおかしい」「自分はこんなに頑張っているのに待遇が悪い」という主張をすることがある。実際、この手の主張は年1回以上は確実にある。
そこで法律を前提に自事業所の就業体制を詳細に説明するものの、相手は自分の待遇に不満を抱いている前提で話を聞いているので、説明を理解しようとする受け皿がない。
いくら懇切丁寧に1つ1つ説明をしたり、不満(というか誤解)を解消しようと質疑応答を辛抱強くしたとしても、決して納得することはない。
不満を訴える人はインターネットの情報や、身近にいる無責任な知ったかぶりの知り合いの言うことを真に受けて、「自分はこれだけ知っている。だから自分は正しい(職場は間違っている)」と思い込む。
そのため、こちらが説明するほどに「言えば言うほど」とこじれてしまう。
では、最近ではどうしているのかと言えば、冒頭でお伝えしたようにまずは最低限の説明責任を果たすに留めている。
具体的には「結論」「理由(背景)」くらいである。行政や各団体からのリーフレット等あればそのまま使う。
これで大抵のスタッフは「よく分からないけれど、そうなんだ」で終わる。1割くらいは質問をしてくるが、説明してもよく分からない顔をする。だから「しばらくしても分からない事があれば、また聞きに来てください」と伝える。しかし、大抵の場合は聞きに来ない。おそらく、頭の中で理解と不満を行ったり来たりしているうちにどうでも良くなるのだろう。
「そんな説明の仕方で何かトラブルにならないのか」と言われるかもしれない。――― 安心して欲しい。スタッフに説明することの9割は大した話ではない。言い換えると理解できなくても物事は進む。
最初のうちに不明点を解消することは大切であるが、そこで1つ1つ説明すると逆に混乱を招く。それより「やっているうちに出た疑問を解消していく」というほうが物事はうまく進展する。
だから、説明をする側も説明を受ける側も、そこまで肩肘張ったり、対立姿勢にならなくてもよいのだ。
思うに、説明する側も説明を受ける側も、最初から完璧に理解を求めようとしすぎなのだと思う。
私たちは機械でない。プログラムされた通りになんて動けない。仮にプログラムされていても忘れたり、ミスをしてしまうのが人間というものだ。
説明とは1発で理解し合うための行為ではない。むしろ、これからもお互いに説明する・説明を受けるを繰り返しながら、徐々に「ああ、そういうことか」と理解し合うのが適切である。
本記事では、説明する側の視点で主にお伝えしてみたが、果たしてこれも「説明」として役割を果たせているのだろうか? このあたりは、読み手に判断を委ねたいと思う。
ここまで読んでいただき、感謝。
途中で読むのをやめた方へも、感謝。
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