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生産性の向上を目指す前に「がんばりを評価する」を見直したほうが良いと思う
たくさん頑張って疲れている人たち
いつも疲れた顔をして息を切らしながら仕事をしている人がいる。
このタイプの人は、何でもかんでも仕事を引き受けてしまう。
たぶん「たくさん頑張ることが良いこと」という認識があるからだろう。
もちろん、たくさん頑張ること、つまり「量」をこなすことは悪いことではない。特に何か新しいことを始めたときは基礎学習とともに反復と意味での「量」をこなす時期は必要だ。大変でも、それが将来の強い土台になる。
但し、それは目的意識が明確で自身の能力の範囲に限った話だ。目的意識もなく闇雲に何でもかんでも引き受けても成果にはつながらないし、自身の許容量をオーバーになってしまったら本末転倒だ。
しかし、このような働き方をしている人たちは少なくない。それは上記のとおり「たくさん頑張ることが良いこと」と思っているからだろう。
たくさん頑張ると何が良い?
ならばここで1つの問いを立てる。
仕事において、たくさん頑張ると何が良いのだろうか?
――― 上司や同僚から評価される?
では、どのように評価されれば納得するか?
「たくさん頑張ったね」とでも言われれば満足だろうか? たぶん「それだけ?」と困惑や落胆しかない得られないだろう。
――― 時間外や休日出勤などの手当(お金)が得られる?
たしかに頑張った分だけお金という対価が得られると納得する。しかし、納得と満足は違う。実際、誰よりも時間外で働いている人はいるが、次第に「たくさん働いた分を貰えるの当たり前」と思うようになる。
――― たくさん頑張っていると嫌われない?
頑張っている人は素敵だ。きっとそのような人を嫌う人はいないだろう。
しかし、闇雲に頑張って疲弊している人を見ると周囲は心配してしまう。
嫌われることはないにせよ、他人からそのような感情を抱かれて良いか?
生産性の向上の前にやること
世間では「生産性の向上」というワードが広がっている。そこに付随してDXといったこれまでの業務スキームを抜本的に見直し、創造的かつ価値ある仕事ができる環境を目指している。
しかし、上記のような「たくさん頑張ることが良いこと」という認識を多くのビジネスパーソンが抱いているならば、まずはこの認識から改めなければいけないと思う。
そうでないと、せっかく生産性の向上としての取り組みが形になって軌道に乗ったとしても、余裕ができたところに別の「どうでもいいタスク」を詰め込んでしまいかねない。一体何のための取り組みだったのだ、となる。
実際、この傾向はどこの職場でもある。業務効率のために新しいシステムを導入して時短化を目指したり、業務プロセスを見直してチーム全体の連携を強化しようとしても、「たくさん頑張ることが良いこと」を第一としている人たちによって新たに「たくさん頑張れるタスク」を増えることがある。
気持ちは分かるが、どこかで負の連鎖を断ち切らなければいけない。
この負の連鎖を断ち切るためには、まずは生産性の向上の前に「たくさん頑張ることが良いこと」という誤解を断ち切らなければいけないのだ。
仕事は自己満足のためにあるわけでない
ここで1つ辛辣なことをお伝えして終わろうと思う。
「たくさん頑張ることが良いこと」と思っている人たちは、どこかで仕事を自己満足のためにあると誤解している。
仕事にやりがいや充実感、アイデンティティの確立などを求めるのは結構だ。しかし、それは副次的に得られること・感じられることであって仕事の本質ではない。
仕事はあくまで「他人に満足を与える」ためにある。それによって対価としてお金や社会的信頼・評価を得られるのだ。それが自分のためになっているのは間違っている。
逆に言えば、「たくさん頑張っているのに報われない」と疲れ切ってしまっている人は、「他人が満足できるものは何か?」「お客さんが求めているものは何か?」「職場で求められているものは何か?」と考えてみると良い。
それは仕事の原点であり本質である。
すると、案外「なーんだ、別にこんなに頑張らなくていいじゃん」と気付し、これまでの半分の量の頑張りで「楽しい」「充実感がある」といった感情が湧くかもしれない。
なんだか説教臭い内容となったが、頑張っていることが報われる世界になってほしいと思う。そのためには、本当に頑張るべきことと、そうでないことがあると気づいてほしいと思って記事にした。
生産性の向上も大切だが、少し肩の力を抜くことも大切ではないか。
ここまで読んでいただき、感謝。
途中で読むのをやめた方へも、感謝。