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自分ができるからって「他人もできる」と思わないほうが良い

介護サービスの基本は自立支援である。
具体的には、利用者たる高齢者が「できることは自分で行い、できないところを介護者が支援する」という考えだ。

しかし、ベテラン介護士でも、この前提を忘れてしまうことはある。

それは例えば、言葉を発するのが困難な利用者に対して「もぉ~、何言ってるか分からない!」「聞こえないから、大きい声で言ってよ!」と声を荒げてしまうような場面だ。

本来であれば、プロの介護士として言葉を発することが困難な利用者の意向を汲み取って介助する必要がある。それが仕事が忙殺されたりすると、そのような思考が抜けてしまって上記のような言い方をしてしまうわけだ。

もちろん、プロとしては忙しさを言い訳してはいけないが、このような言い方になってしまうのは忙しさだけが理由ではない。

それは「自分ができる」ことは「他人もできる」という誤解にあると思う。


 
この誤解は、何も介護に限った話ではない。
どうしても私たちは、自分を中心に物事を考えてしまう癖がある。

しかし、それは悪いことではなく普通のことである。他人視点で捉えることも大切であるが、自分がどう思っているのかを自覚しておくことも同じくらい大切である。

それはまるでRPGのステータス画面を開くようなもの。「自分は現状このくらい知識がある」「自分はこのくらい理解している」「自分はこのくらい技術がある」といった捉え方をする。

しかし、他人もこちらと同等の知識・理解力・技術といったスキルを有しているわけでないし考え方も価値観も異なる。それが当たり前のことだ。

しかし、この自分と他人は違うという当たり前をすっ飛ばして「自分ができる」ことを「他人もできる」としてコミュニケーションをとろうとする。

その結果、相手が「?」となってしまったり、こちらが意図することと違うことを始めようとするわけだから、イライラなどの感情が湧き上がる。
最悪の場合、「何でこっちの言うことが分からないんだ!」と相手に感情をぶつけてしまって話がこじれることもある。 


 
改めて、冒頭の介護の場面で考えてみよう。

言葉を発することが困難な高齢者を相手にしてイライラしてしまうのは、「自分は言葉を難なく発することができる」という前提があるからだ。

そして「相手も言葉を難なく発することができる」という前提のもとで介助を進行しようとするので、介助対象である高齢者がうまく言葉を発することができないとストレスを抱いてしまうようになる。

このように書くと、誰もが「言葉を発することが困難な方を相手にしていると分かっているに、言葉を難なく発することができると思うことはあるのか?」と疑問を抱くだろう。

もちろん、この例で言えば介護士も相手が言葉を発することが困難であることは理解している。しかし、潜在的に「自分はできるのに」という傲慢さが勝ってしまうのだと思われる。

これは理屈でなく、感情が先走った結果なのだ。 


 
正直言って、この手の話はどの介護現場にもあると思う。
そして、この手は話をすぐに解決することは難しい現実もある。

それは「自分はできる」ことは「他人もできる」という思い込みを払拭することは難しいからだ。

ここで、逆の視点の話をしようと思う。

私は高校時代に数学が苦手だった。それは、ある日を境にクラスメイトが当たり前に理解していることが、急に理解できなくなったからだ。それは病気でも勉強の難易度が上がったわけでなく、なぜか根本的な話に目を向けるようになってしまったからだ。

例えば、いきなり「このようなパターンはこの公式を使う」と教えられると「どうしてその公式ができたのか?」となってしまうのだ。まるで子供の「なんで?」のような状態だった。これが足枷になってしまった。

周りのクラスメイトからは「何で分からないの?」「普通に考えればいいじゃん」「公式に当てはめればいいよ」と言われた。数学は嫌いではなかったが、この「なんで?」は教師にも理解されることはなかった。

別に悲しいとは思わなかったが、数学の成績は伸び悩むことになった。
まぁそれはそれとして、このような経験から他人との相互理解はできないと思ったほうが良いのだと気づいた。

それは翻って見たとき、いくら「自分ができる」としても、そこで「他人もできる」と前提にしたコミュニケーションをとらないほうが良いという学びでもあった。


 
もしも「自分は普通にできるのに、なんであの人はできないんだ」と憤っている人がいたら、それは傲慢であると思って欲しい。

――― すべてを完全にできる人はいない。

この事実は誰でも何となく分かるだろう。

それは「自分にはできないことがある」という事実でもある。

つまり、「他人はできる」ことを「自分もできる」とは限らないということだ。というか、むしろこっちのほうが多いと思う。

その点を忘れて、自分ができる・知っている・理解していることだけをピックアップして、他人を責めるのは矛盾してはいないだろうか?

また、今は「自分ができる」けれども、何かしらのタイミングで「自分ができない」となることだってある。そのときになって他人から「何でできないのさ」と言われたら落ち込むだろう。

そう考えると、冒頭の例である言葉を発することが困難な高齢者に対して「自分は難なく話せるのに、この利用者は何でうまく話せないんだ」みたいな態度をとるのは傲慢だと分かるだろう。
それはいつか自分もそうなる可能性でもある。明日は我が身だ。

また、場所や環境が変われば「自分ができる」よりも「自分ができない」ことばかりなることもある。

「自分ができる」ことをできない他人にイライラしたら、「ま、自分もできないことはあるしな」と考えれ見てほしい。
それはその場だけの感情コントロールにもなるが、将来の自分ができない側になったときの心の落としどころになるかもしれないのだから・・・。


ここまで読んでいただき、感謝。
途中で読むのをやめた方へも、感謝。

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