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「やりたいことがない」は悪いこと?

「やりたいことがない」という悩みを持っている人は多いらしい。

おそらく同じ毎日の繰り返しで「これでいいのか?」と思ったときや、好きなことを満喫している他人をSNSなどで見て思うのかもしれない。

「やりたいことがない」とは「やることがない」とは少し違う。
「やること」ならば多くの人たちが持っている。しかし、それとは別に自分で意識的に決めている「やりたいこと」が欲しいのだろう。

しかし、そもそも「やりたいことがない」は問題なのか?

まるで「やりたいことがある」が普通のことであり、そうでない自分が異端であるような考え方である。

また、「やりたいこと」というものを、他人に自慢できることでなければいけないかのような風潮もある。もっと言えば、「やりたいこと」を仕事にできればいいという考えも伺える。

別にそのような風潮や考えがあっても構わないのだが、それが自分の中にないから苦しむというのは本末転倒な気がする。

 
「やりたいことがない」というのは、ある意味で平和な悩みだと思う。
そもそも、人間も含めた生物は「生きること」そして「子孫繁栄により遺伝子を紡いでいくこと」という原始的な目的がある。

それはある意味で「やること」であり、他生物や自然環境とコミュニケーションが取れたとして「やりたいことがない」なんて悩みを伝えても、「やりたいこと? 何言ってんの?」と言われてお終いだろう。

もしも、原始的な「やりたいこと」があるならば、「食べたい」「寝たい」
「排泄したい」くらいではないか。

しかし、それでも人間はそれ以外の「やりたいこと」を求める生き物だ。
だから数多の娯楽が社会のあちらこちらにあるのかもしれない。

しかし、「やりたいこと」を求めるのは良いとして、「やりたいこと」がない自分に悩むのはやはり奇妙な話だ。「やりたいこと」なんて義務ではないし、「やりたいこと」が明確にある人のほうが少ないと思う。

「やりたいことがない」としても、それはおかしい話ではない。
「やりたいこと」があっても確実に充実できるわけではないし、「やりたいこと」があるからこそ苦しむことだって十分にある。

――― やりたいことがない? 

別に悩むことはない。「やりたいこと」がなくても生きていける。

やりたいことが見つかっても、それで充実できる保障なんてない。

思いつかないならば、とりあえず目の前の「やること」に没頭しよう。

「やること」に没頭することでも、充実感は得られるのだから。

そうして1日を終えたときに、「やりたいことはないけれど、今日自分がやるべきことをやったから、まぁ上出来」と言えたらば、それもまた「やりたいことをやっている自分」と言えまいか?

なお、私は高齢者介護の仕事しているが、確実に自分が「やりたいこと」を明確に分かって、それを日々の糧にしている高齢者は少ない。みんな自分の肉体と生活の範囲内で「何となく生きている」という感じだ。

しかし、その「何となく生きている」こそが、彼らにとって重要なのだと思っている。だからこそ、無理に「やりたいことがない」というのは、さほど重要な問題ではないと思うわけだが ――― いかがだろうか?


ここまで読んでいただき、感謝。
途中で読むのをやめた方へも、感謝。

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