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「不完全」という自然の摂理

今朝、自宅の窓の1つをぼんやり眺めながら気づいたことがある。

それは、家具や建物、電化製品など、身の回りの物は”直線”で形成されている、ということだ。

本棚やロッカーは横・縦・奥行それぞれ直線になっている。テーブルやデスクも、四隅は丸みを帯びていても、人が座る箇所は直線になっている。スマホもPCのモニターも、キーボードも同様だ。A4用紙も本も直線によって、その形を成している。

もちろん、マウスのように握るという前提の物や、機能として丸みを帯びたりデコボコしていることもある。

私たちの生活のほとんどは直線によって支えられている ――― とまでは言わないが、とにかく「直線が多いなぁ」と思ったわけだ。

朝という時間帯にこんなことに思いを馳せるのは、我ながら暇人だと思う。


 
私たちの身の回りの物は、なぜ直線が多いのか?

このあたりは専門家でないので明言できないが、勝手に考察してみる。

まず、製造的な視点で考察すれば、曲げるよりも直線のほうが製造プロセスとして容易であるということもあるかもしれない。また、直線であるほうが部品同士が連結させやすいこともあろう。

実用的な視点で言えば、配置するときにお互い直線のほうが隙間ができにくいなどのメリットも考えれる。また、心理的な視点で考察すれば、もしかしたら人間は直線という整っている環境に身を置くことで安心感を抱くのかもしれない。

――― と、ここまで考えてみて気づいた。

”直線”とは、もしかして人間だけの発想ではないか?
”直線”とは、人間の都合に合わせた概念ではないか?


 
自然界には、基本的に直線は存在しない。

地面に対して垂直に伸びている木はないし、雑草だってまがっている。葉の筋はランダムに広がっている。

石コロを拾っても、人間が形成するような直線な箇所はない。それどころか必ずどこかが欠けている。空を見上げても一直線に広がる雲はないし、波の動きも直線ではない。

生物の内臓も骨格も、全体を見れば直線に見えても、細かく見れば関節などの節目によりデコボコしている。

自然は必ずどこかに歪みがある。
でこぼこで、不規則で不完全だ。

ここで「不完全」という言葉を使ったが、完全・不完全という言葉もまた、直線という言葉と同様に人間にしかない概念だと思う。

大地・太陽・海や川などの自然に話を聞くことはできないので、これもまた明言できないが、もしも自然と対話できるのであれば、きっと彼らからは「完全って何ですか?」と逆に聞かれるだろう。

むしろ「自然とは見たままですが」と、さも当然のように言われるだろう。

つまり、人間から見て直線ではなく、がっつり曲がっていても、個々にバラバラに成長を遂げても、それが当たり前のことなのだ。

それが「自然」なのだから。


 
私たちは、知らず知らずのうちに「完全」を求める。
そして、それに適合しないと「不完全」として不快感を抱く。

しかし、前述のとおり完全・不完全とは人間の価値観である。
そのため、完全を追い求めるほどに「不自然」になっていく。

ここで言う不自然とは何かと言えば、「もっと、もっと」と追い求めたり、「自分が、自分が」と主張したり、「こうあるべき」と執着したり、「他の人は間違っている」と感情的になることである。

それは苦しみにつながる。
完全さを求めるほど、不完全さを許せないほどに私たちは苦しむ

潜在的な、自分主体の完全さを追求することは不自然であることに気づかなと、いつまで経っても苦しみから解放されないということだ。


 
完璧主義という言葉があるが、これは自然の摂理から考えると不自然という話になる。

つまり、「完璧主義は苦しみにつながる」ということだ。
 
完璧を追求することを良いことと思う人がいるが、これは個人のこだわりに過ぎない。それは不自然なことであり、終わることのない苦しみを自らに課している状態である。まるで自分で望んだ拷問のようだ。

何かを追い求めることは大切だ。

しかし、完全という不自然なことを追求していないか、を常に問う必要はある。なぜならば、「不完全こそが自然」だからだ。

苦しまないためには、この「不完全こそが自然」という事実を受け入れたほうが良い。

自分で言ってて難しい話だと思う。まぁ、そこまで深く考えないでいただきたい。何せ、今朝ぼんやりと思いついた「不完全」な考えなのだから。


ここまで読んでいただき、感謝。
途中で読むのをやめた方へも、感謝。

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