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”国”と”経営者”と”労働者”の考える働き方がそれぞれ異なるから、ミスマッチが生じる

スタッフの多種多様な主張


介護事業を営んでいる立場として、人事や労務管理は切っても切れない。
1人1人のスタッフの業務内容や就業時間、賃金や手当といった労働条件を基本として、それぞれの事情に配慮した勤務予定を組む。

しかし、どんなに事前に話し合いを重ねても、働き手から不満の声が出ることは珍しくない。これまで愛社精神をもって働いていた人でも、退職間際になって過去に遡って金銭を要求することもある。

スキルアップやキャリアアップしたいと言っているわりに研修をしても興味を示さなかったり、あからさまに反発した態度をとる人もいる。
やりがいや充実感を持ちたいという欲求があるのに、1つ1つの業務を雑に早く終わらせようとする人もいる。

その他、業務を減らしてほしいと要望するから効率化ツールを紹介するも、自分には使いこなせないと同じやり方を継続するということもある。

――― 数え上げればきりがない。ときにスタッフの非常識な主張に対して、気が滅入るしまうことも少なくない。


労働をおろそかにしている労働者


仕事は探せばたくさんあり、それを労働者が選別する時代だ。
一方、誰でもいいというわけでないが、企業はどこも人手不足だ。

そうなると労働者が優勢になってしまうのは仕方ない話だと思う。
そのためか、昨今ではまるで「ゆりかごから墓場まで」のように労働者を手厚く保護するような制度が良い風潮がある。

もちろん、給料や業務内容はもちろん、社内の雰囲気が良くて福利厚生や研修制度などが充実している企業のほうが良いのは確かだ。しかし、このような自分に有利な要素ばかり求めて、肝心の「労働」をおろそかにしている労働者が増えているように見える。

それどころか、やりがいや自尊心の確立のために自己判断したり、上司や周囲の注意や指導に逆切れする人もいる。意外なことかもしれないが、これは中高年になるほど増える傾向にある。

いや、これは私個人の見解である。というか偏見だろう。

それでも安全で平和で恵まれた現代日本において、かつての「仕事があるだけマシ」「食い扶持があるだけで幸せ」という時代ではない。もはや仕事に求めるものは「他人のために仕事をして対価を得る」から「自分のために仕事をする」という考えになっているように見える。


即戦力や将来性ある人材を求める企業


一方、企業側にも問題がある。

ここで言う企業とは「職場」でも「現場」でも何でもいい。いずれにせよ、どの業界でも人手不足の中において「誰でもいいから来て欲しい」というのは本音だろう。そうしないと仕事が回らない。

とは言え、「誰でもいいから」というわりに「若くて元気な人がいい」「物覚えがいい人に来て欲しい」「素直な人だと教えやすい」などと、企業は企業で即戦力だとか将来性だとか人間性を求めすぎている。それは労働者が「たくさん給料が貰いたい」「やりがいのある仕事がしたい」と言っているのと同じである。

大切なのは求人に応募してくれた方を迎え入れて、企業として人材を育てるという思考であるはずだ。また、その人が安心して働けるような職場風土や労働条件を与えることだって必要だ。

そもそも、とりあえず仕事が回ればいいという考え方に陥っている企業(職場)に働きたいとは思わないだろう。しかるべき理念や方針があってこその企業という存在を示すことも大切だ。

(・・・とまぁ、このような偉そうな話をしているが、事業者としての自分がそれをできているかと言えばYESとはハッキリ言えない。むしろ人手不足を何とかすることで日々を送っている自分にウンザリする)


国も企業も労働者も、働き方の見解がバラバラ


このような多種多様な労働者の考え方と、企業における人材の考え方とでは「働き方」にバラツキがあるのは何となく分かると思う。

仕事とは社会の困りごとの解決や要望に応えるためにあるのに、労働者も企業も「自分のために」ファーストになってしまっている。おそらく、それが労働者と企業における考え方のミスマッチを生んでいるのだと思う。

また、そんな労働者と企業のミスマッチに気付かないままに「働き方」を改革しようとしたり、生産性を向上しようとしている”国”もまたズレた対策をとってしまっている。

つまり、”国”も”企業”も”労働者”も、働き方に対しての見解がバラバラなまま「働き方」を模索している状態と言える。これは平和な国だからこそなのかもしれない。

しかし、その結果として「生きるために何でもする」「社会発展のために進化する」みたいなハングリ精神が失われている。別にそこまで大袈裟な考えでなくても、とりあえず”国”も”企業”も”労働者”も「働くって何だろう?」「仕事って何のためにあるんだろう?」「自分さえよければいいの?」を振り返ったほうが良いのかもしれない。

それはまるで道徳の授業のようであるが、”国”も”企業”も”労働者”それぞれがバラバラに「働き方」を目指すよりはマシになると思う。


――― ちなみに私は働く動機として「お金のため」というは悪くないと思う。改めてお伝えすると、働く動機が自分スタートであっても結果的に誰かのためになって、その対価としてお金が得られるということを忘れていなければ問題ない。
しかし、仕事や社会の構図を忘れて「自分が、自分が」と考えているのは何か違うと思う。

また、”国”も”企業”も”労働者”も「仕事を良くしたい」と思っているのは確かであり、「働き方」を見直す時代になっているのも誰もが望んでいるからだ。それをまずは一本化することが、人員不足な労働市場で経済発展につなげるための一助になるのでないか。



ここまで読んでいただき、感謝。
途中で読むのをやめた方へも、感謝。

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