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たまにテレビを観ると情報発信のあり方について色々と考えてしまう
たまに観るテレビが楽しい
自宅にテレビがないため、テレビは職場である介護施設でしか観ない。
観るといっても施設では基本仕事をしているので、断片的な情報ばかり。
タイミングが合えば連続テレビ小説を続けて観ることができるので、割と楽しみにしている。
ワイドショーの内容は正直言って頭に入ってこない。事件や事故というのは一時的なものであるし、世界情勢は悲惨な情報ばかりクローズアップされて核心を得ない。但し、興味があることは書籍などで確認している。
一方、芸能情報は全く興味がない。そのため、たまに施設スタッフに教えてもらう。何なら施設入居者にも教えてもらう。
別に「テレビ観てない自慢」をしているわけではない。むしろ、テレビによって自分が意図的に得ようとしない情報を知れることは楽しい。施設入居者と一緒に「へぇ~」と言いながら視聴するのも楽しい。
加熱するわりに具体的な情報がない報道
最近、誰もが知っているタレントが、女性問題をきっかけに引退するとかしないとかいう報道を目にする機会が増えた(渦中のタレントさんはテレビを見ない私でもさすがに知っている)。
その出来事はタレント個人の話ではなく、大手テレビ局まで巻き込み、あまつさえ国会でも議論に取り上げられている。
それでも私にとっては「何だか大ごとになっているな」くらいの認識だ。
むしろ、事態が拡大するほどに要領を得なくなっている。
深刻な事態が拡大しているという大枠の情報は伝わるが、経緯や背景がいまいち伝わってこない。常に結果だけを観せられているような気になる。
もちろん、スマホで検索すれば具体的な経緯や背景、現状を知ることはできるだろう。しかし、別にそこまでして知りたいわけでもない。そして世間が騒ぐほどにどんどん他人事になる。もともと希薄な興味も薄れていく。
まぁ、一番はこの手の話に興味がない私自身に要因があることだろうが。
情報発信は一方通行であってはならない
しかし、私のような人も少なからずいると思う。
つまり、メディアを通じて「何か」が起きていると幾度も目にするものの、その情報が表面的なレベルで膨れているだけで「結局何が問題なの?」という印象になってしまうのだ。
それはまるでインターネットを閲覧していて急に表示される広告のようだ。そこに果たして情報としての価値はあるのだろうか?
私は事業運営という立場として、社内外に情報発信する機会が多いからこのような(余計な)ことを考えてしまうのかもしれない。
情報発信とは、それを受け取る側も発信する側にも価値をもたらすべきだと思う。決して一方通行であってはならない。それは情報とは人間が社会で活用するためにあるからだ。
ただ形式として行われるだけの情報発信ならば、いっそ何もしなくてもいいと思う。そのほうが時間もコストも無駄にせず済む。
それはテレビも同様であり、ただ表面的で深掘りする気配のないまま、結果だけな情報を垂れ流すだけの情報ならば不要ではないか。
報道のあり方は視聴者の心理を反映している
とは言え、別にメディアを否定するつもりはない。具体的な情報があってもなくても、どんな情報を流そうが大半の出来事は関係ないのだから。
そもそも、深掘りされていない表面的な情報を求めているのは、情報の受け手である視聴者である。つまり、現在の報道のあり方は視聴者の情報に対する心理を反映しているにすぎない。
テレビを観ている視聴者は、1つ1つの情報に対して真剣に捉えていない。ときどき興味がある情報があればスマホ等で検索するくらいだと思う。
もしも、メディアが喧伝している情報に対して「何だか要領を得ないな」「具体性に欠けるな」と思いつつ別なことに興味が移るならば、それは自分にとってそれくらいの情報だと思って良いと思う。
実際、情報化社会と言われているわりに個人または全体として活用できる情報は限られている。それを知っていれば、どうでもいい情報を眺めて一喜一憂することもない。知ったところで「へぇ~」で終わらせていい。
それでも「この事件は何か気になる」「このテーマはもっと知りたい」と思って深掘りするとき、それが情報というものに自分なりの価値を付けることの第一歩となると思う。
・・・とまぁ、要領の得ないのは本記事も同じかもしれない。
ここまで読んでいただき、感謝。
途中で読むのをやめた方へも、感謝。