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社会の歯車ではなく、誰もが「主人公」
「社会の歯車になんてなりたくない」という若者がいる。
そうして、自分なりの生き方を模索したり挑戦したりする。それはそれで良いと思う。ある意味で今風の生き方だ。
しかし、社会で生きている人たちの多くは、別に自分たちのことを歯車だなんて思っていない。ちゃんとそれぞれの理由をもって会社で働いたり、その時その時の自分の選択肢をもって人生を構築している。
そのため、多くの人たちは、社会の歯車であろうとするどころか、むしろ「自分は社会の中心である」とすら思っているのではないか?
「そんなことはない」と反論される人はいるかもしれない。
しかし、それならば、なぜ自分の考えを主張したり、相手にそれが伝わらなければ腹を立てるのか?
それは、自分の思い通りにしたいという気持ちであり、自分の思い通りにならないと怒りや悲しみが湧き上がるからだ。社会と言う人間集団で生きていると分かっていながらも、自分が中心でありたいという願望があるからではないか?
――― 別に自分を中心と据えるような考え方を否定するつもりはない。
自分の人生なのだから、その主人公は自分であろうとするのは自然である。
その「主人公」という言葉の由来だが、そもそもは禅の言葉である。
その意味は「本来の自己、本来の自分」を指す。
他人や環境をどうこう気にするのではなく、自分という存在を自覚し、自分のあり方を問いかけ、自分の中にある仏のような価値を見出だそうとすることである。
上司から大量の書類作成を任されたとき、「こんなに仕事を押し付けやがって」と思うならば、それは上司が主人公になってしまう。しかし、その書類作成を通じて学ぼうとしたり、効率的な方法を見つけて終わらそうとするならば、それは自分が主人公となる。
冒頭の「社会の歯車になりたくない」という若者は、おそらく「人の言いなりになりたくない」ということだと思うが、生きていれば、必ず誰かしらの言うことを聞かなくてはならない。それは社会における事実である。
別に「それぞれの役割があって社会は動いているから、1つ1つの歯車は大切なんだよ」なんて説教くさいことを言うつもりはない。
しかし、社会の歯車になりたくない、他人の言いなりになりたくたない、自由に生きたいのは分かるが、それならば社会において一体何者になるつもりなのだろうか? と疑問に思うのだ。
そこで「主人公」という考え方が重要になってくる。
誰かの言うことを聞く状況になっても、物理的に不自由になったとしても、本来の自己にフォーカスする意味での「主人公」に目を向ければ、それは決して社会の歯車ではないと思う。
そもそも、現代はスマホやらSNSなどのツールをもって、自分の意見を発信できるではないか。内容が人を傷つける者でない限りは、それは主人公的な行動であると思う。
自分の意見をグッと堪えるしかなく、自分個人では何もできなかったかつての時代とは全然違う。歯車なんて言っている暇があったら、知恵とテクノロジーを使い倒すことで活路が見いだせる。
――― 世の中は他人の目を気にして生きている。人間関係に気を使いながら自分の役割を最小限に行えばよいと縮こまることもある。
しかし、俯瞰してみると人間はそこまで歯車ではなく、特に現代人は誰もが考え方と行動一つで「主人公」にあっさりなれる。
つまり、「社会の歯車になんてなりなくねぇ!」なんて言っている若者をみかけたら、「主人公におなりなさい」と思ってあげても良いかもしない。
ここまで読んでいただき、感謝。
途中で読むのをやめた方へも、感謝。