2012年10月3日 日本再生計画 「民放キー局地方移転論!!!」/10月7日 出師の表
2012年10月03日 日本再生計画 「民放キー局地方移転論!!!」
くしくも、中国の船団が尖閣に向かった国家存亡の日に、AKB48のじゃんけん大会というバカ番組が、民放で全国に向けて画一的に放送される。そんなバカ国家は日本くらいなものだろう。
そのような商業的に弛緩(しかん)したメディアの兆候を、社会学者の権威デュルケイムは警鐘を鳴らすし、アメリカの格差社会に対する反発のデモの火付け役となった有名な社会活動家で、知日家のカレ・ラースンも深く懸念している。
日本ではジャニーズ、その他のアイドル、韓流、吉本といったアジア特有の「バカ番組」というものを東日本大震災のような客観報道と同じくらい中央発信・中央集権で画一的かつ一方的に放送する。
まして、最近の若者の快楽主義化というのも進んで、国民の総白痴化が著しい。
それは、デュルケイムの分析によれば、社会全体に影響を与え、まずは道徳的価値観を崩壊させて、人間を動物のような存在に近づけて、自殺、幼児虐待、少子化、公務員による多発する不祥事などなど、さまざまな悪影響を及ぼす。
日本はことに経済においても、文化においても、中国と韓国への依存が強く、また、それらの無宗教・非道徳で、自分たちの利益しか考えない主観的で一方的な物の考え方というものが日本の民度の著しい低下に影響を与えている。
そして、これら配慮なき、恨み骨髄の隣国の反日運動によって、日本の系列キー局はとまどい、AKB48のじゃんけん大会も全く視聴率が取れなかったなど、視聴者もまたテレビに対して冷ややかな目線を送り始めている。
日本の系列キー局は経営的に厳しいが、他の企業のようにリストラもしなければ、方針転換もしない。どのみち、今のままではネットに押され、そして多くの愚かではない国民にも見放されて民放キー局もジリ貧であろう。
それでも「公共の利益」というを拡大解釈、いわゆる曲解して、「公共の電波」で堂々とバカ番組を流し続ける。
テレビの民営化に反対した犬養毅の先見性をまずは称えたい。
外務省同様、韓国・中国の方を向いて、バカ芸能人や創価学会がらみの有名人を多く起用して、毎日毎日来る日も来る日も不毛にバカ番組ばかりを作っては一方的に放送して、子供・女性・老人など日本国民の弱い部分をつけねらって、白痴化の運動を続けている。
私が言いたいのは、バカ番組を作るのは自由だが、それを全国ネットで画一的にやる意味があるのか?ということ。
東日本大震災の客観報道などとはやはり分けるべきではないか?
今、維新の会が政権を目指して、恐らくは近い将来地域主権型道州制を進めるが、お金の流れや行政区分だけを道州制にしても意味がない。
地方を活性化するには、まずはテレビ・系列キー局を東京からたたき出すことである。
国民の関心の多くをテレビの中の地元に向かわせなければならない。
テレビCMにも地方の企業をPRするように使って活性化させる。
ようするに今の日本には「東京」しかない。
しかし、アメリカにはワシントンはただの政治機能だけで、NYがあり、LAがある。
イタリアにはローマだけではなく、ミラノがあり、トリノがある。
ドイツはすべての主要都市が同じくらい栄えている。
「日本にミラノを作らなければならない。」
要するに東京以上に強い都市を量産することである。
そのためには民放・系列キー局を東京都から叩き出すしかない。
国民の関心の「拠点」を地方に移すのである。
橋もっちゃんの行政改革だけでは地方は強くならない。
この国家の大計をまずはこのブログにて発表したい。
そして皆さんからのご意見をうかがいたい。
2012年10月07日 出師の表
当ブログのアクセスが激減して、全く以って私の不徳の致す所である。
漠然と皆さんに謝罪したい。
私が今日書くことはまず民放でここ数日犯罪追跡番組をやっていたことに対する意見。
それは「日本人にはもう悪人はいない」ということ。
交通違反に酔っ払いに性犯罪者…。
私は日本の報道を見ていつも思うのだが、ついつい犯人に同情する。
それは公人の魔が差した性犯罪など、日本の犯罪者は多く病人であるから。
社会学的に見ても、哲学的に見ても。
もちろん、女心を解せない、それでいて女に依存・固執する私も病人であろう。
すなわち「日本には悪人はいない」。
真の悪人は戦後一切の道徳教育を否定してきたメディアである。
一般人を「素人」と呼んで、ただ一つの過ちを以って、バイキン扱いして楽しむ。
それが日本の無思想で自分たちだけがセーフティにいて、高みから見下したような報道・放送のあり方なのである。
戦後テレビそれ自体が社会に与えてきた影響力は計り知れない。
アイドルのいるテレビの中と、個々が生きる現実とのギャップは計り知れない。
それが個々の精神に悲哀と現実の生活の虚しさ・苦しさを生み出す。
さらには道徳的価値観も崩壊していじめも蔓延している。
江戸時代やイスラム世界にはおよそない現象だ。
私が今言っているようなことは、大宅壮一(一億総白痴化)や堺屋太一に近く、それほど常識外れなことではない。
端的に言えば、日本ではメディアが犯罪者を生み出し、それをメディアが個人攻撃するという図式なのである。
そして、メディアの人間自体もたくさん性犯罪を繰り返しては、なんの総括もなく他人事のようにそれを報道するだけである。
要するに日本には画一的にバカ番組を流し、韓流を流し、世論操作をし、道徳については触れない民放キー局なんていらないんだ。
固い話になってきたが、私は日本の社会衰退と景気回復を一挙に解決できる国家百年の大計を先日石原知事宛てに投稿した。
昨今は消費増税を掲げながら、景気を回復させる術のない無為無策な民主党は、日銀に金融の緩和を迫り、無能ぶりを露呈している。
前原さんがピース綾部に見えてしょうがない。
ジリ貧で人口オーナスの日本の景気をV字回復させる唯一にして最大の方法を私は都知事に提言した。
それは前の記事にも話したことだが、民放キー局の本社を地方に移すことである。
今現在東京にはテレビ関連・出版関連などの企業が非常に多く集中している。
それも中央区など、23区の一部に。
もはや敵対的な中韓に依存できない、橋もっちゃんが関西をオランダに喩えるがEUにない日本が景気回復・経済成長していくにはそのくらいの大々的な手を打たなければならないのである。
日本はイタリアに喩(たと)えれば、東京にローマに加え、ミラノ、トリノ、ジェノアなどが集まったようなもの。
要するに「日本は東京しかない」。
日本が成長するためには、東京以上の都市をどんどん作らなければならない。
そのためには例えば、日テレを福島に移して、福島をミラノにする。
制作会社もプロダクションも芸能人も文化人も関係の深い局の地方に移住する。
CMも地元の企業のものを流す。
中央では風化しつつある震災の復興も進み、雇用も増え、若者も地元に留まる。
「東京にはテレビ東京とTOKYO MXしかない」というのが理想。
東京だけに人を集める時代を止めるということ。
さもなくば、金利的に屁の役にも立たない、民主党の金融緩和の無為無策。
そもそも民主党とは、ただの「アンチ自民党」であって「完全なる烏合の衆」である。
私は2015年都知事選に打って出、日本を変えようと考えたこともあった。
しかし、未だかつて政府・省庁・自治体・学会・出版・新聞社に相手にされたことはなく、出てもワタミや東国原に負け、…というか全く相手にならず(「私一人の1票だけ」ということもあろう!?)供託金300万円をドブに捨てるようなもの。ちなみに日本のメディアは絶っっっっ対に私のことを報道しないから、売名行為にはならない。
ましてメディア寄りで人気のあるワタミや東国原が私の意見を聞くとも到底思えない。
要するにこのままでは日本は滅ぶ。
そこで、私が唯一その人の下で仕えてもいいと思う石原都知事に提言を出したのである。
果たして私の声は知事に届くであろうか?
齢(よわい)もうすぐ39。日暮れて道遠し。
中韓がアメリカでこぞって日本に対するメディア戦争を仕掛け、中韓の長き「憎しみ」に日本の美しさは蹂躙されつつある。
しかし、今さらミャンマーのかつての独裁者タン=シュエやアパルトヘイトの側につく人はおるまい。まして、反日という「憎しみ」の側に。
されどその理を世界に説く気骨のある哲人日本になく、もはや風雲の灯火と言ってもよいだろう。
この国は果たして小沢一郎のものか? 池田大作のものか? ジャニー喜多川のものか? 孫正義のものか? それとも秋元康のものか?
いくらでも死んでもいいとされる日本国民一人一人に私は憐憫の情を覚えずにはいられない。
この国はやはり見えない格差を背負って、一人一人の関心をテレビの中の中央に向け、すべての人をコミュニティから分断して、バラバラにして、ただ切り捨てるのである。
真の哲人でなければこの国は救えない。
とにかく子供が殺される。あるいは少子化で生まれない。
道徳の不在がこんなにも人間を醜くさせる。
思うに三島由紀夫とは「ラオウ伝説」である。
三島は戦後唯一歴史に名を残す男である。
彼は元官僚で、文学者で、政治家になっていくらでもこの国を変えられることができたのに、
皇道派の魂によって、早死にしてしまった。
だが「武士道とは死ぬことと見つけたり」。
偉大すぎる男、三島よ。
この激動の新世紀にありて、私が行くべき道とは!?
この病人ばかりを生み出す中央集権型の醜いメディアの荒野にありて、戦いばかりが続いていく…。
やれ児童虐待だ、ももいろクローバー だと、排他的な女が動物化していく意識の中で、真の人間の心を取り戻すことができるのは!?
心眼なき、色と無知と暴力と無配慮の邦(くに)に、日本人は果たして何かを見出すことができるであろうか!?
※こちらは2012年10月3日から7日にアメブロで投稿された、現在非公開の記事となります。
あくまで一哲学者の記録として保存することを目的とした記事であり、2020年現在の社会情勢にそぐわない部分があることはもちろん、私自身、道半ばの時期で、今の私自身とは異なる点も多々あり、ニーチェに影響された大変厳しい文章となっていますことを予めご了承下さい。