英語発音の練習成果は遅れて現れるもの
一般に、英語の発音に挑戦しようとした時、「こんな音は出ない」と最初からあきらめてしまう傾向があるように思います。
私は、何の疑問もなく「練習すれば少しずつできるようになる」と思ってやってきているので、世間ではどうしてこれほどまでに「英語発音」の「練習」という活動が一つのジャンルとして市民権を得ないのか不思議でならないのです。
練習といえば、世の中には、楽器やスポーツ、その他の分野で、すごい人がいっぱいいます。「これが同じ人間か?」と思うほどの離れ業をする人がいます。そういう達人たちは、私の練習量などとは比べものにならないぐらいの練習をしているはず。
ところが、なぜか英語の発音となると、関心がある人はとても多いはずなのに、練習に打ち込もうとする人はめったにいないようなのです。どうしてでしょうか?
いくつか考えられることがあるのですが、1つ、大きな要因かな?と思うことがあります。それは、「発音においては、練習してもできるようになる気がしないから」です。
ちょっと試してみただけで、「あぁ、無理無理」とあきらめてしまうんじゃないでしょうか。
だとすると、発音練習を継続的にやっている私としては言い分があります。「生体が反応するのには時間がかかる」ということです。平たく言えば、すごくタイムラグがあるのです。
説明のために、ちょっとしたモデルを考えてみました。冒頭の図です。
下にダイヤルが3つあって(もっとたくさんでも良い)、上にメーターがあります。途中には、回路らしきものが入っている箱があるのですが、どのような仕掛けになっているのかブラックボックスになっています。
さあ、この3つのダイヤルを調整して、メーターが最大値になるよう調整しましょう。
「1つのダイヤルで最大値を探して、まずはそこを固定して・・・」というのはダメですよ。そのダイヤルは、思わぬ狭い範囲にした方が良いかも知れないのです。もし、模範解答例が示されたとして、その1位、2位、3位におけるダイヤルの調整位置は、まるで異なる組み合わせかも知れないのです。
話がそれてしまいました。今回はこのような悩ましい調整テクニックが本題ではありません。タイムラグの話でした。
ここで、以下のような4つの「もし」を考えてみました。
もし、ダイヤルを調整しても、しばらくは全く反応しないとしたら。
もし、一旦は反応して調整が利いたように見えても、しばらくすると変化してしまうという性質があったとしたら。
もし、タイムラグがあるだけでなく、その遅れ方がダイヤルごとに異なるとしたら。
もし、調整しても、翌日にはダイヤルが戻ってしまっているとしたら。
こうなると、「そんなの、もう無理だ」ということになってしまいそうですね。
たしかに難しいことです。
では、上記のような場合であっても、以下の「もし」が加わったらどうでしょう。
もし、3つのダイヤルとも、そこそこ「このあたりが良さそう」という目安がわかっていたとしたら。
どうでしょう。「そのあたり」で調整してみて、様子を見るということができそうです。
つまり、「メーターを見ながら、今、直接的にコントロールしようとするやり方ではダメだ」ということです。
調整しても針が振れないように思っても、よく見ると少し振れているかも知れない、何度か調整を繰り返すと動き出すかも知れない、メーターをよく見ると総合値ではなく別の指標での値に切り替えられるようになっているかも知れない・・・。
実は、英語の発音って、おおよそこのような感じなんですよ。今回の例は、発音にピッタリ当てはまるようなものではないのですが、「すぐには調整できない」、「でも、どうすれば良いかはだいたいわかっている」、「遅れて出てきた反応を見ては試行錯誤で調整を繰り返す」という視点では、まあ喩えになっているかなぁ、という気がします。
発音に関わる身体の動きって、みな筋肉によるものなんですが、ごく一部を除いて、自分の意志では自由に動かすことはできないのです。だから、限られた動かせるところを使って近い形に持って行き、あとは、言い方は乱暴ですが「つられてくるのを待つ」感じなのです(実際には、そう簡単なものではありませんが)。
言葉遣いは不適切かも知れませんが、「負荷を与えながら神経の回路ができるのを待つ」ような感じなので、できるようになるには、とても時間がかかるのです。
冒頭で、楽器やスポーツのことに触れましたが、そのような活動における練習の反応よりも、はるかに鈍感なのです。世間常識と違いすぎて言いにくいことなんですが、「年単位」が普通。5年後、10年後にどうなっているか?ですよ。
「そんなに時間がかかるなら意味がない」とか「時間や労力の無駄」と言われてしまいそうですが、私としては、「そんなもん」だと思っています。
逆に、「ごく短期間で習得したものが、その後何十年にも渡る人生を生きるための礎になる」なんてことは、私には想像できないんですよ。
言語は、人間が授かった奇跡のようなもの。それを、100時間ぐらいの学習で取得できる資格のようなものと同格で扱ってはいけないように思います。
生まれて最初の言語は、どうやら自動的に「獲得」できる何かがありそうだという話がありますが、「その後に意図的に身につけるものについては、そう簡単にはいかないものだ」という感覚が、私としては普通なのです。言語そのものについても発音についても同じことが言えると思います。
とはいえ、「何か特別なもの」だからということで、「何か特別なすごい扱い」をする必要はないと思っています。「やってりゃ、そのうちできる」って感じではないでしょうか。
冒頭で、私は「練習すれば少しずつできるようになる」と言いました。
私が発音を習った最初の頃は(11歳~12歳の頃のことになりますが)、最終的な目標値なんてありませんでした。「ネイティブ発音」なんて概念すらなかった。そもそも、「人からどう見られるか」なんてことは、これっぽっちも考えることなく、発音の基礎を覚えて練習したのです。
そして、何十年も経った今、まだ身体は覚えています。それに磨きをかけることも(今までできなかった音を出すことも)、これまた年単位ですが、進歩し続けているのです。
そうやって考えると、私の場合、目的・成果・人からの評価といったことは何も気にしていなかったから、取り組むことができたのかも知れません。逆に言えば、今の世の中、それとは逆の価値観だから、取り組むことが難しくなってしまっているのかも知れませんね。
いずれにせよ、発音に関する世の中の雰囲気、いくらなんでも「セカセカ」しすぎているような気がしています。
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