写真についてのアイデア備忘録
写真を撮ることはもちろん好きですが、それにまして「写真についての考え」を肥やすことも重要だと常日頃考えています。
別段共有する必要もないわけですが、常々Slackにまとめている写真についての考えや発見を乱雑ながらまとめ書きしてみようと思い立ちました。
というのも、近頃、デジタルとフィルムの違いや撮影行為の作意、新たな撮影スタイルなどの知見がわずかながら自分の中で積もっていき、一旦整理したい気持ちがあったためです。
取り立てて統一性もなく、読み手にとっても有益な情報があるか定かではありませんが、どこかの誰かにとって、撮影行為・写真についての考えの肥やしになれば幸いです。
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ー 写真は卑猥な "Peeping" 、されども立派な "Communication"
僕の撮る写真は、そのほとんどがスナップ写真。
街中でみかけた変な人、仲睦まじい恋人、青信号なのに立ち止まってどこかを見つめる人。
スーザン・ソンタグは自著「写真論」で、"写真は覗き見趣味" という。
その一方で彼女は、"写真を撮ることは、コミュニケーション" という偉人の存在も記している。
ファインダーをのぞき、被写物体を傍観する。
その対象が楽しそうにしていても、困っていても苦しんでいても、撮影者ができることはカメラを介し傍観することだけ。一方通行で、主観的で、暴力的かもしれないけど、そこには確かにコミュニケーションが存在する。その被写物体から「必ずや何かをえぐり取ってやろう」という強力なコミュニケーション。
ダイアン・アーバスは、雑踏の中流血しアスファルトに倒れる瀕死の子どもを撮影した。周りの怒りの視線に目もくれなかったが、誰かがアーバスの後頭部を石で殴った時に初めて「不謹慎さ」に気がついたそうだ。
覗き見趣味を超越するアーバスの撮影行為は、カメラを介すことでオーラル・コミュニケーションとは一線を画したコミュニケーションを展開している。
ー コミュニケーション vs 記録
日中戦争時の重慶爆撃を撮影した山端庸介からすれば、"フットボールを撮るのも重慶を撮るのも、そんなに気分は変らない" そう。
「写真は物事を記録する装置」との認識を徹底しているがための考えだろうけど、記録するということは、過去・未来間のコミュニケーションに繋がる。
山端が記録という行為をコミュニケーションと結びつけていたかどうかはわからないけれど、従軍カメラマンとしての経歴を持つ山端からすれば、写真の主眼は記録 / ドキュメンテーションにあり、0と1から成るデータに過ぎないのかもしれない。
ー スナップ写真とシュールレアリスムの親和性
スナップショットには記録的指向は乏しく、「シュルレアリスム的意図」を多分に含むと考えられる。
オートマティスム(自動筆記)、デペイズモン(異環境配置)、デカルコマニー(転写)、フロッタージュ(擦ること)。
シュルレアリスムを代表する描写方法はどれも偶然性に富み、無意識下の光景を表現することを目的とする。スナップ写真は人間本来の物事の見方「野生的な眼」に近く、何ら主観性は有していない。絵画ほどに作者を介した風景の再構築はなされないからだ。
とりわけ、スナップ写真と多重露光を組み合わせた種の写真には多分にシュールレアリスム的要素が含まれると考えている。街中で偶然見つけた風景に対し、無意識にシャッターを切り(オートマティスム)、さらに異なる風景を多重露光によって配置する(デペイズモン)。4つ折りにした紙に異なる4名が各々の絵を描きつなげるという「甘美的な死骸」に近しい描写手法がここには見られる。
ー スナップ写真の持つ「ストリート要素」の融合
巧妙な照明の元撮影されるスタジオ写真や、厳密な被写物体の配置に基づいた演出写真、土着文化から生まれたバナキュラー写真。上述したような意味合いで、スナップ写真は通例の写真とは一線を隔てた存在だといえる。
広告写真にスナップ要素を組み込んだ「ファッションスナップ」が一般化し、今や市中の雑踏の中撮影されたファッションブランドやミュージックビデオに違和感を持つことはまずない。
また、かねてより存在したスナップ写真を得意とする写真家の存在も際立ち、さまざまな領域にスナップ写真、そのストリート性が組み込まれるようになってきている。
ー カメラをどう選ぶべきか
カメラ選ぶ時の判断基準にはさまざまな要素があるだろう。
・ブランド(Canon, NIKON, SONY, OLYMPUS, Leica, Hasselblad…)
・フィルム or デジタル
・撮影サイズ(デジタル:イメージセンサー / フィルム:35mm, 中盤, 大判)
・ピント(二重像合致式 / ヘリコイド式)
その他、レンズ(単焦点, 望遠, マクロ…)やカメラボデイ、AF機能、シャープさ、色合いなど、言えばキリがないほど判断要素は湧き出てくる。
自分がカメラを選ぶ時に最後まで考えあぐねたのが、フィルムかデジタルかという点だった。この2者の大きな違いは、端的に言えば「体験」か「効率」かのいずれかになるだろうか。
フィルムの場合、フィルムに焼き付けた風景を薬品で浮かび上がらせる。
そこには、PCもアプリケーションもデジタル要素は一切なく、またやり直しも効かない。現像されるまでは作品を見ることすら叶わず、フィジカルな工程だけが写真の色合い・粒度・鮮明さを決める。
一方デジタルの場合、撮影直後に写真を見ることができ、RAW撮影で最適な色合いを乗せ、それを何度でも調整できる。
新しいカメラを新調しようとしてかれこれ2ヶ月は迷った挙句、ようやくフィルムカメラ(NIKON F6)に決めることができた。
重要だったのは、被写物体をどれほど写しだすのか、という点だった。
今までなぜデジタルを使って撮るのか、フィルムで撮るのかを考えて来なかったが、今回の新調で無意識のうちに選んでいた選択の真意に近づけそうな気がした。