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『羽根』商店街シリーズ第5話

「今、何時だか分かるかな」

応接用のテーブルをはさんで向かい側に座る相手に静かにそう問われて、僕は事務所の壁にかかった時計を見つめる。「時計は読めるかな」と追い打ちをかけるように続けられた質問に、小さな声で「はい…」と返事をした。

僕は社会不適合者だ。

約束の時間を大きく超えていることは分かる。なにしろ約束の時間に僕はまだ自宅にいたのだ。当たり前のことができない。失敗を繰り返すたび、自分の社会適応能力の無さを痛感する。

言葉も出ずにうなだれる僕、その様子を静かに黙って見つめる中年の男性。

「どうぞ」
重い空気を和らげるような優しい声で、事務の女性が温かいお茶をテーブルに置いた。そして向かいの男性に向かって「編集長、時間ですのでこれで上がらせていただきます」と挨拶をした。

僕の対応をしている編集長が、この小さな出版社の実質的な代表でもある。

「お疲れさん」と声をかける編集長に「失礼します」と頭を下げると、僕に目を合わせてニコッと微笑んだ。彼女の頬の輪郭がくっと広がり、えくぼができる。その瞬間の動きにいつも心惹かれ、僕は彼女を目で追い続けてしまう。

「ん、んんっ」
編集長の咳払いで僕は再び向き直り、姿勢を正した。

「次からは約束の時間ではなく、その2時間前にアラームが鳴るようにセットしなさい。その時間に家を出て、必ずまっすぐここに向かいなさい。そうすれば間に合う」
僕は神妙に「はい」と答えた。

「それで、本題だが」

編集長は僕が持参したイラストの原画を封筒から取り出し、手に取って時間をかけてじっくりと眺めてから言った。

「よく出来ている。素晴らしい」


納品と契約と書類上の手続きをして、次のスケジュールはその場で携帯電話のアラームの設定まで念入りに確認し、打ち合わせを終えて外に出るとすっかり日は傾いていた。

僕は道路を渡ってその通りの先にあるファミリーレストランへと急いだ。
「お一人様でしょうか」と声をかけてくる店員に「待ち合わせです」と返事をして店内を見回すと、窓に面したボックス席に待ち合わせ相手の姿を見つけた。彼女も僕の姿に気付き、軽く手を上げてニコッと笑った。頬の輪郭がくっと変化する。思わず見とれていたら、会計のためにレジに向かう別の客と僕のリュックがうっかりぶつかってしまった。「すみません」と頭を下げて、よろよろと彼女の待つ席に向かう。
重量のあるリュックを長椅子の奥にどさっと置き、彼女の目の前に座ったとたん一気に体中の力が抜けてテーブルに突っ伏した。
「疲れた…」

本当だったら約束の時間に出版社に行き、納品と打ち合わせを終えたら彼女の退社までこのファミレスで僕が待っている予定だった。
繰り返してしまう失敗への自責の念と、社会で思うようにうまくやっていけない絶望で、実際の労働以上に疲労をしてしまう。
そんな僕を「気にしなくていいから」と許してくれる彼女。その手にはいつも小説がある。待ち時間は本を読んでいるから大丈夫だと、この慌ただしい都会で急かすことなく僕の歩調に合わせてくれる貴重な人だった。

「田舎に帰りたい…」
疲れのあまり思わずつぶやく僕に、「あなたは都内の出身でしょう」と優しく諭すように彼女が話しかける。机に突っ伏したままの僕の額にかかる髪を撫でながら「髪伸びたね」と言った。「今度切ってあげる」

彼女の指先の感触を感じながら、僕は目を閉じた。遠い記憶が見えてくる。

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うちは都心部に古くからある街の一角で代々続く雑貨屋で、祖父が亡くなったあとは祖母がその小さな店を切り盛りしていた。父と母が結婚したのを機に店舗兼住居の裏庭に小さな2階建てを増築し、僕はそこで生まれ育った。

大柄でたくましい父、礼儀に厳しく賢い母。
ごく平凡な生活が一変したのは、両親の突然の事故死だった。

家庭の中心にいた二人を失い、あとはのんびり余生を送るだけだった祖母と小学校に入ったばかりの僕はぽっかりと空いた暗闇に取り残されてしまった。明かりを失ってしまった僕たちには数々の慰めや励ましの言葉も届かず、ただ洞穴の奥に閉じこもるように日々を過ごした。

それでも、小学校のうちは近所の同級生や教師がたびたび訪問して登校の手助けをしたり何かと気にかけてくれた。やがてそんな繋がりも次第に薄れ、中学ではほとんど不登校になっていた。

失意の中で細々と雑貨屋を営む祖母は、僕までがこのまま社会から離れていくのは良くないと考えたのか、昔から馴染みのある電器屋に相談したらしい。ある日一台のパソコンが僕の部屋に設置された。

最初は何をすればいいのか分からなかった。
電器屋のおじさんが時々様子を見に来て、文章を書くソフトを設定してくれたり、インターネットに接続して使い方を教えてくれた。
そんな中で出会ったのは、オンラインゲームだった。

自分の分身として洋装をまとったキャラクターを操作し、中世のような世界観の町を歩き、外の世界に出たとき、その広大な自然の美しさに僕は感動してしまった。
野を駆ける動物たち、飛び交う蝶や鳥たち、風にそよぐ植物の向こうに見える雲のかかる美しい山々。
東京の街中で引きこもり同然に生きてきた僕にとって、小さな画面に映るその世界が初めての大自然の姿だった。

その後、衝動が押さえきれなくなった僕は、祖母の雑貨屋から売れないスケッチブックと画材をもらい、デジタルで作られた風景を写生するようになった。描けば描くほどイメージを表現できるようになっていき、ゲーム内で交流するうち親しくなった人たちに教わりながら画像投稿サイトで作品を公開しはじめた。
やがて、絵を使用させて欲しいという依頼が来るようになり、製作費を出すからという話まで出たため、課金に対応したサービスを利用しはじめた。
同じころ、僕は長年籠っていた部屋から少しずつ外に出るようになっていた。最初は近所を散歩し、公園や川でスケッチをした。徐々に行動範囲が広がり、電車の乗り方を覚えた。

依頼が増えるごとに明確になってきたのは、僕の社会性の低さだった。
義務教育を含めて集団生活をほとんど送ってこなかった影響が浮き彫りになった。いくつもの迷惑をかけ、いくつもの叱責を受け、折れそうになりながら流されるように絵を描き彷徨っていた頃に、雑誌で連載している記事の挿絵を依頼する連絡が入った。

それが今、出入りするようになった出版社だった。社会不適合者の僕を厳しくも温和に根気よく見てくれている。

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目を覚ますと、夕暮れだった窓の外はすっかり真っ暗になっていた。

ガバッと起き上がり、一瞬めまいでクラっとした。目の前の彼女が「おはよう」とニコッと微笑んだ。その手にしている小説の表紙は変わっていた。

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「ちょっと営業に行ってきて欲しいんだが」と編集長は僕に言った。

先日の打ち合わせでの念入りな準備が功を奏して、今日は時間通りに打ち合わせを進めることができた。その最後、付け足すように「仕事が増えても大丈夫かい」と問われて「はい」と答えたら、編集長が続けた言葉がそれだった。

複数のサービスを展開しているIT系の会社がWebメディアを展開していくそうで、今の時流で将来を考えたとき紙の出版だけでは先が見えているこの出版社も、なんとか関係を繋ぎたいらしい。
ほとんど外に出ていて滅多に姿を見ない若い営業担当者が、その会社の社長との短いアポイントを取ることができたので、そこに同行して欲しいとのことで了解した。

日時と場所、最寄り駅とルートをいつもよりも念入りに確認した。

こうして頼れる場所に助けられながら、少しずつでも僕が社会に参加できてきているような実感が嬉しかった。


その大事な営業を予定している日の前日、僕は路線の確認をしながら乗り換えの駅を降りた。商店街を通り抜けて交番のある角を曲がってしばらく歩くと空が開けた。偶然立ち寄ったその公園は子どもたちの声、スポーツを楽しむ人たち、行き交う人たちの生き生きとした姿であふれていた。
この場所は好きだ。
イメージを膨らませてスケッチブックを開いてイメージのままに描いた。日が暮れ始めたら屋根のあるベンチに移動して街灯の明かりの下で描き続けた。

そして僕は、いつの間にか寝てしまう。

人の声、そして眩しい日差しに目を覚ますと朝がきていた。
公園の壁に囲まれたベンチにいると自覚するまで少しの時間を要し、事態に気付くとざーっと音がするほど血の気が引いた。
ここは乗換駅だから、これから出る一番早い電車に乗れば間に合う!

僕はリュックをかつぎ、全速力で駅に向かって走り始めた。

交番の角を曲がるとき、勢いで踏んだ木の葉に足を滑らせて転倒しそうになった。交番前に立つ不機嫌そうな警官がちらりと目線を向けてきた。

通勤や通学で商店街を往来する人を左右に避けながら駅に向かって走る。重いリュックが勢いで自転車にガシャンと当たった。
「あっ」
傾いた自転車が隣の自転車を押して、傾きの連鎖が起きるかと思ったところで停止した。直すかどうか一瞬迷ったが時間がないので商店街を駆けていく。

無くさないようにと祖母が上着に縫い付けてくれたカードケースごとICカードを当てて改札を抜ける。ホームに上る階段から、一気に人の波が溢れてきた。電車が到着している!
わずかな人の隙間をかいくぐってホームへの階段を駆け上がっていくとき、振られたリュックが何かにぶつかる感触があった。振り返るとオレンジ色の服を着た女性と目が合った。彼女が身をかばうように持ったカバンから中身が飛び出すのが一瞬見えた。
走る勢いが止まらない僕はそのまま左右の足を動かして階段を駆け上げながら、最後は何かにつまづいて大きく転倒した。
プシューという音と共に電車の扉が閉まり、車両が動き出す振動が床から全身に伝わってきた。

あぁ。やってしまった。

脳裏に鮮明に残る、オレンジ色と女性の驚いた顔。
まさか階段を転げ落ちてやしないか。自分の予定など間に合わなくても、人の命には代えられない。立ち止まって助けるべきだった。

走り続ける電車の中であの場所に戻ることもできず、僕はうずくまったまま後悔の念に打ちのめされて身を起こすことができなかった。

母親らしき人とともに座席に座るベレー帽をかぶった5歳くらいの男の子が、興味深そうに僕を見ていた。


目的の駅を降り、改札を出て大通りをふらふらと歩いて進むと、大きなビルの角から「おぉーい、こっちだよー」と元気の良い男性の声が聞こえてきた。
待ちきれないように駆け寄ってきたのは、僕が世話になっている出版社の若き営業マンだった。明るいグレーの背広姿が彼の性格を表しているようだ。
「あぁ~良かったよ、ちゃんと来られるかどうか心配でさ」
営業マンは僕の腕をつかみ背を押して「寝起きかい」と言いながら、大きなビルの自動ドアを通り抜け、3階分ほどもある広い吹き抜けのロビーに連れて入った。
このビルに今日の営業相手であるIT会社があって、出てくる社長をこのロビーでつかまえて僕の絵を見てもらうのが今日のミッションだ。

「ほらっ、有名な会社がこんなに並んでてすごいよな」
営業マンが指示した先にはロビーの壁に貼られた入居会社のパネルが並んでいる。鏡面のそのパネルに映る僕の髪は、寝ぐせに加えて電車内でリュックに頭をうずめていたせいで、彼に言われた通りひどく爆発していた。
ゆがんだ鏡面を見ながら手櫛で髪を直していると、道中にぶつかった自転車や女性のことを思い返して膝から崩れ落ちそうになる。

「来た、来たよ!」営業マンにまた腕をぐいっと引っ張られ、向かう先には数人の人の塊が見えた。「あの人だよ、白いシャツの!」
堅苦しそうなスーツや上品な服装の人に囲まれて、中心を歩く白い短髪の男性が見えた。ネクタイもしておらず背格好もそれほど目立たない。社長と教えてもらわなければきっと気が付かない。

「社長、本日はありがとうございます!」躊躇せず勢いよくその輪に飛び込む営業マンに押されて僕もその行き先を遮るように立つことになった。しきりに社長に話しかけていた横の中年男性が少しムッとした表情で僕たちを睨む。
「こちらが本日連れてきた弊社の画家です!」
言うと同時に僕に向かって「早くアレを出して」と耳打ちしてきた。僕は慌てて、打ち合わせで聞いていたとおり原画を描き続けているスケッチブックをリュックから取り出して差し出した。
社長は、多忙そうでありながら記憶はしていたのだろう。何も言わずに僕のスケッチブックを受け取って、パラパラとめくった。最後までいくと、もう一度最初から、今度は少しゆっくりとページをめくった。
僕たちは黙ってそれを見守った。
最後まで見終わると社長はスケッチブックの表紙に書かれた「12」という数字に目を止めた。「12冊目ってこと?」聞かれて僕は「はい」と答えた。
「他の、ある?」と問われて慌ててリュックから一つ前の「11」と書かれたスケッチブックを取り出して渡した。長くリュックに入っていたため全体が大きく湾曲していたが、それも社長は1枚ずつページをめくって中身を見た。
社長が無言で僕にスケッチブックを返してくれたタイミングで、営業マンが「こちら、私共の連絡先です!」とすかさず名刺を手渡し、「彼の名前も裏面に書いてございます。ご指名の際はぜひとも!」と頭を下げた。僕も彼に合わせてぺこりとお辞儀をした。
社長は名刺を一瞥すると、横にいた長身でメガネの男性に渡した。彼が秘書かそれに近い部下なのだろうか。やたらと時計をチラチラ気にしていた中年男性が社長を急かすように誘導し、ビルの外に駐車していた車に乗り込んで去っていた。
最後に、名刺を受け取った長身のメガネが僕たちに向かって立ち止まり会釈をした。

「やったよ」社長の一行を見送った後に営業マンが言った。「気が向かなければ立ち止まってもくれないんだよ、あの社長。名刺まで渡せた。今日は大成功だよ!!」
思考も感情もダダ洩れの彼が喜ぶ姿を見て、そんな望みの薄い橋を渡っていたのかと知った。

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商店街に続くあの駅でのことを僕はどうしても忘れることができなかった。なんとか無事を確認するか、可能であれば謝罪をしたかった。

朝の通勤ラッシュの時間帯に現れるのではないかと一縷の望みをかけて僕はホームで待っていた。
何本目かの電車の到着を見守ったあと、改札に続く階段に向かうオレンジ色のカーディガンを見つけた。彼女だ!
いきなり話しかけるのは不躾すぎる。僕は少し離れて後を追った。
彼女は、身なりの良い男性と並んで歩いていた。雑踏の中でかすかに聞き取る限りでは、一緒に行く映画の話をしているようだった。
改札を出ると、二人はお互いに手を上げて反対方向へと向かった。同じ会社というわけではないのか。
一人で歩くオレンジ服の女性のあとを、タイミングを計りつつ追う。周囲の人影が減ったあたりで少し足を早めて追い付こうとしたとき、ステップを踏むように軽い足取りで歩いていた彼女がくるりと回転をした。スカートの裾がひらりと舞い、幸せそうに微笑む彼女の表情が揺れる髪とともにきらめいて見えた。

彼女はいま幸せなのだ。

僕がぶつかった非礼を詫びて嫌な記憶を思い出させるのは、いまは適切ではないことは充分に理解できた。
僕はそのまま駅の方に戻った。

商店街の中ほどに数台の自転車が止めてあった路地がある。今日は自転車の姿はなかった。これから止めに来るのかもしれない。その横の、まだ開店前らしいシャッターの前で僕は待機することにした。
商店街の通りを挟んだ向かいには2階に続くカフェの入り口があり、店員らしき若い女性が看板を出してチョークでなにやら描いていた。
よく見かけるカフェらしいデザインとは違って、まるでスタンプを散らすような独特な模様が珍しくて、その様子を眺めていた。
しばらくすると小太りのサラリーマンがタオルハンカチで汗をかきながら通りがかり、看板の女性に手を上げて挨拶をしていた。店員は無表情で手を上げてそれに応じた。
馴れ馴れしい常連客だろうか、と思った直後、女性店員は降った手でぎゅっとエプロンをにぎりしめていた。無表情が迷惑そうに見えたのは、違ったのかもしれない。

背中でガシャンと大きな音がしてビックリして振り返ると、店のシャッターが開くところだった。店内に靴が並んでいるのが見えた。ここは靴屋だった。
こげ茶色のジャケットを着た店主らしき男性にじろりと見られて、僕はその場から移動するしかなかった。
僕がぶつかって自転車を傾けた場所にはまだ誰も来る様子がない。近付いてみると、完全に壁に同化していて見えなかったロープが標識と電信柱の間に張られていて、「駐輪禁止」という紙がぶら下がっていた。


僕の謝罪は届かない。してしまったことが消えるわけでもない。
ただ、なぜかあの場所から幸せが受け取れた。その気持ちのまま、僕は挿絵を描いた。風に揺れる花畑の上でオレンジのワンピースを着た妖精がくるりと回り、光が飛ぶ。

「とても良かった。作家の先生も大変気に入ってくださったよ」
雑誌に掲載されたイラストは今まで経験したことのないほどの言葉で好評を得ることができた。

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その日は僕にとって衝撃的な日となった。
例のIT社長から僕を指名して絵の依頼があったのだ。僕を呼び出した編集長が明らかに興奮を抑えながら、僕に資料を提示してくれた。
設定、サイズ、掲載イメージ、細かな色指定と指示。
「できるかな?」ここまでお世話になった編集長やこの出版社の期待に応えないわけにはいかない。僕は「はい」と返事した。
「では、これが今回の報酬になる」
差し出された明細書の数字は、初めて見るものだった。ゼロの数を間違えていないか、何度も数えなおした。
「あの、いいんでしょうか」震える声で恐る恐るたずねる僕に、編集長が笑顔で答えた。「うちの手数料はちゃんと引いてあるから気にするな」

今まで祖母の世話になりながら生活してきた。これからは心配をかけずに、ようやく社会の一員としてやっていけるような気がした。

事務所を出るとき、いつもの事務デスクにいる彼女が僕を見てニコッと微笑んでくれた。頬の輪郭に見とれる。
いつも寄り添ってくれる彼女になにかを贈りたくて仕方がなくなった。


公園での野宿はできない季節になっていた。
彼女の散髪でさっぱりした首元を、冷たい風が横切っていく。身をすくめながら僕は店に入った。
彼女が喜ぶものが何も思い付かなくて、とりあえず入ったのがジュエリーショップだった。入ってすぐのショーケースに飾られた値段に驚愕し、丁寧に出迎えてくれるスーツ姿の店員も僕には直視できないような美しさで、申し訳ないくらいに挙動不審になる。
しどろもどろの僕から上手に情報を聞き出してくれた店員が「こちらがおすすめですよ」と案内してくれたコーナーは、こんな僕にでもなんとかなりそうな金額で助かった。

目に留まったのは、天使のような羽根のついたペンダントだった。


持ち帰った新しい仕事の資料からは次々とイメージが思い付き、とにかく思い付く限りの数を描いて持ってきて欲しいという編集長の言葉もあって、尽きない想像力を膨らませて絵を描いていた。
いくつかの夜がきて、朝が来た。

その日は部屋にいても特別に冷え込む。手元に夢中になりながら、何枚目かの絵を仕上げていた。ふと、雪になるかもしれない、という発想が浮かんで窓の外を見た。いつの間にか日が暮れて、真っ暗だった。手元には作業用のライトが付いているから意識していなかった。

雪になるかもしれない。気を付けて。

気を付けて?

彼女から言われたその言葉を唐突に思い出した。そうだ、今日は彼女と約束をしていた日だ!
床に散らばった紙に足を滑らせながら、入り口にあるコートとリュックを抱えて僕は転がるように外へ出た。
今日を忘れるなんて、なんていうことだ!

やっぱり僕は、社会不適合者なんだ。

倒れそうになりながら、いつもより人が多い電車でうずくまることもできず、調子に乗っていた自分を悔いた。

待ち合わせの駅に着き、イルミネーションの灯る駅前広場に出た。周囲を見回しても彼女の姿はない。あぁ。

絶望的な気持ちになったとき、携帯電話を思い出した。そうだ、連絡を。。取り出すと彼女からいくつもの着信があったのが分かった。なんで気が付かなかったんだ、それどころか見ることも忘れていたのか。

絶望的な気持ちになりながら彼女に折り返しの電話をかけた。

「こっちこっち」

電話越しの彼女は、明るい口調でそう言った。
どこにいるんだろう。彼女の声を聞きながら、僕は周囲をぐるぐると見回した。

駅前広場に面したカフェは、暗闇の中で並ぶその窓がまるで宇宙船のように浮かんで見える。その一つの窓越しに、こちらを向いて座る彼女の姿が見えた。とっくに僕のことを見つけている彼女が、手を振っている。
白い衣装を着て、座席の高いカウンター席に腰かけて、まるで浮いているようだ。

天使だ。

僕は、コートのポケットのふくらみを確認した。
彼女へのプレゼントは、絶対に忘れてはいけないとあの日から一度も出さずにここにしまっておいた。

天使に、羽根を渡しに駆けだす。

リュックが揺れて、何かとぶつかった。
「あぁっ、すみません!」慌てて振り返ると、それは駅前に設置されている郵便ポストだった。

カフェの窓越しに笑う彼女が、その頬の輪郭で分かった。

終(8610文字)

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