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『その雨滴のこちらがわ』-B面-

「でさぁ」

ピンクのワンピースを着た彼女が、席の向かい側でネイルに貼りつけた疑似ストーンをいじりながら言った。

「私の誕生日、来週の週末なの」

へぇ、と相槌を打って、じゃあその日に会おうか、と誘う。

「実家に帰るんだよね」

彼女はカールした軽い茶色の毛先をくるんと指に絡めた。

「じゃあその前の日はどう」

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オフィスに「おつかれさま」という声が上がる。
この日最も遅くに帰社したのは、営業部で一番若い女性部下だった。

彼女は俺にも「戻りました」と頭を下げて挨拶すると、まっすぐ自分のデスクに向かった。


2,3ヶ月ほど前、キラキラアイテムで埋め尽くされた俺たちのデスクは行き詰っていた。
営業成績が思わしくない中、女性向けプロジェクトだからと社内の女性社員に意見を聞いて回った。
少し冷めた目でサンプルを見ていた一人の女性社員が一言「今の女性が求めているのはこういうのじゃないですよ」と素っ気ない回答をした。
いいんじゃないですか、と無難な反応が多い中、その意見は際立っていた。

よく見ればまだ若い、入社して数年の社員だった。
ストレートの髪をきちっとまとめて、いかにも真面目な、仕事頑張ってます感。

お前に世の中の女子の気持ちが分かるのかよ。

生意気だな、というのが正直な印象だった。

「じゃあ君、営業やってみる?」

総務にいる若い社員の業務なんて大したことない。
俺は彼女の上司にかけあって、あっさりと引き抜くことに成功した。


現実を知って苦労すればいいんだ、と少し意地の悪い気持ちで見ていた部下は、案の定、慣れない営業に初日から苦戦していた。
いまに無理だと泣き出すだろう。
わざと放置していたが、驚いたことに彼女はしがみついてきた。

毎日遅くまで報告書に向かう部下が帰宅するまで様子を見た。
デスクに向かう彼女は、少しでも足を休息させたくてハイヒールからかかとだけ外していた。
誰にも悟られないように、壁を向いてそっと目頭を中指の先で押さえていた。

少し甘えた顔をして頼ればいいのに。
もっとメイクも甘くしてさ。

最初はそう思っていた。
だが、彼女の可愛くない粘り強さは、徐々に上げてくる成果として目に見えてきた。


ここ最近、最後まで残るのはいつも俺たち二人だ。
「大丈夫?」
部下に声をかけると「大丈夫です」と、仕事の目でこちらを見た。

そうじゃない。
オフィス用ではない君の瞳を見てみたい。

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交際中の彼女とは今日で3度目のデート。
本当なら今夜、彼女のアパートで夜を過ごすつもりだったが、状況が変わった。
正確には、俺の心境に変化があった。

「会社から呼び出しがあったんだ」

そう説明する俺を、上目遣いに彼女が見つめる。
その視線を受ける俺は、彼女のつけまつげの接着面を見ていた。
至近距離からだと、どの程度メイクに力を入れているのかが分かる。観察するのがクセだった。
キラキラしているだけの、手ごたえのない女だ。

「じゃあ」彼女は俺の方に体を向けて、両手で俺の手を握る。
「次は絶対ね」
誕生日の前日祝いだな。
アパートの階段の下で、俺たちは口づけた。

いつしか俺は相手に対する愛情ではなく、欲求で付き合うようになっていた。
かける言葉の優しさは順調にコトを進めるための、あるいは面倒を起こさないための手段だ。

この女性の前に交際していた女はすでに結婚が決まったと聞く。
彼女たちにとっても俺はただの通過点だ。

キスの途中に目を開く。
通行人がこちらを一瞥して、通り過ぎた。

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3か月の成果が認められ、あの部下に社内のMVP賞が出た。
営業に受注に走り回った彼女の働きが高く評価されたのだった。

俺の部下を見る目も変わっていた。

「お祝いに、飲みにでも行くか」
そう誘ってみた。
「はい」
嬉しそうに目を細める部下の瞳がキラリと輝いて見えた。


その居酒屋は個室が多く、少し人目を避けて落ち着く場所としてたびたび利用していた。
カーテンで仕切られ、出入りも目立たない奥の席に通された。
予約した席だった。

「君の指摘は正しかったよ」
席に着いてからの俺はほぼ仕事の話を口にした。
仕事に前向きな部下は、真剣な眼差しを向けて俺の話に頷く。
時間を気にする素振りは見せなかった。
「だからさ、もっとやらなきゃって思うんだよね」
話が途切れないように、熱心な上司を演じて会話を続けた。

彼女の手元にある梅酒の氷がとけ、とろみのある薄い液体が揺れる。
結露した水滴がグラスを伝った。


部下のスマホが振動した。
「すみません、ちょっと」
スマホを持ってサッと席を外した。

だいたい見当はつく。

彼氏がいるらしいという噂は耳にしていた。
スーパーから食材の入った買い物袋を提げて出てくる姿を目撃したという話を聞いたこともある。
仕事に専念しているようでも、遅くなる日は時間を気にしていた。

今日の誘いも、正直なところ結果は五分五分だと思っていた。
今ここにいるということは、彼女にも何か心境の変化があったのか。


そのとき、俺のスマホも振動した。

交際中の女性とは誕生日の前日祝いをする約束だった。
もちろん覚えている。
優先順位が変わったんだ。

特別感を出すいつもの言葉で返信した。
「なんとか抜け出して、電話する」


すみません、とカーテンを開けて部下が戻ってきた。
ドリンクメニューを眺めていた俺は「じゃあ俺もちょっと」と入れ違いで席を外す。

トイレに続く通路で、彼女に電話をした。
すぐに出た。
「やっぱり今日は仕事で帰れない」と淡々と要件を伝える。

明日はどう?と提案すると「明日は実家で誕生日のお祝いだって言ったじゃない」とあっさり却下された。

知ってる。

「じゃあ、また改めて。連絡するよ」
そういうと手短に通話を切った。

電話の間、通路の奥にある等身大の窓を眺めていた。
いつの間にか雨が降っていた。
ガラスの外側を流れる雨粒はまるで、外界との繋がりも立場も関係も遮断するようだ。

職場で演じるいつもの自分とは違う。
ネクタイを外した。


「おまたせ」
個室に戻った。

部下の隣に座り、カーテンを閉める。

「なんでこっちに」
そう答える彼女の瞳は、アルコールのせいではなく、甘く潤んでいた。

これを見たかった。

体を寄せて、顔を近付けた。

ファンデーションの甘い香りがした。

終(2503文字)

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【関連作品】A面はこちら。

執筆過程を以下の記事で書きました。


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