『屋根』
鏡台の椅子を踏み台にして大人の腰の高さほどある2階の窓をよじ登り、1階の屋根の上に出た。
ベランダのないこの家で祖母は決まって屋根に布団を広げて干している。
片手には、祖父の書斎から持ってきた単行本。
大人たちの目を盗んで、ポカポカと暖かい日差しを受けながら、布団の上で本を広げて読むのが好きだった。
紫外線は気にしないし、両手を上げて本を持っても腕は疲れない。
子どもの私は自由だった。
庭には大きなイチジクの木が枝を伸ばしている。
根元あたりから大きく枝分かれしているこの木は木登りに向いていて、弟や近所の子どもたちの歓声が屋根の上まで届いていた。
彼らが全身をかけて揺さぶった枝がギシギシ鳴って、屋根の上にのぞいたイチジクの大きな葉がユサユサ揺れる。
太陽の光とともに、活字の海が私に降り注ぐ。
読めない漢字は、前後の文脈から意味を推測した。
読み終わると1階の祖父の本棚に戻しに行く。
壁に作り付けられた本棚の、固定された段に手足をかけながらよじ登って、背の届かない最上段までいけば、大人の読む本が並んでいる。
手元の一冊を元に戻して、今度は数冊先のグレーの本の背表紙の上に指をかけると斜めに引き出した。
台所からは、祖母が野菜を切る音が聞こえてくる。
もう一冊いけるかな?
そっと2階への階段を上がった。
ーーーーーー
脚立を広げて本棚の前に立て、3段ほど登って高い位置から見渡す。
大人の目線が届かない高さの段にはうっすら埃が積もっている。
幼い子どもがよじ登れば、その細い指の跡がついていただろう。
布団だって、干してある上に人が寝れば形跡が残るだろう。
あの頃、台所ではまだ明るい時間から祖母が夕飯の支度を始めていた。
書斎では、いつも壁際に置かれた座卓に向かって何かを書く祖父の後ろ姿があった。
気付きながら大目に見てくれていたんだろうと今なら察することができる。うまくやっているつもりでいた自分に少し気恥ずかしさを感じる。
本棚の下段には重い百科事典が並び、土産物や置物が飾られている。上段には小説や読み物が多かった。
石原慎太郎、横溝正史、北杜夫。
両親によって子ども向けに選ばれた自宅の本棚より、ここはずっと魅力的だった。内容が理解しきれなくても、本を攻略していくことが楽しかった。
無口だった祖父とはもっと話したかったなぁと、書斎に飾られた写真を眺めて思った。
祖父の本棚から引っ張り出した司馬遼太郎を持って、日当たりのいい縁側に寝そべる。
本を支える腕が疲れるので、時々姿勢をかえてゴロンと寝返る。
午後の傾いた日が居間に届くと、座椅子にもたれていた祖母が動き出す。
「布団は私が行くよ」
ゆっくり動作する祖母に声をかけて、私が本を置いて2階へ上がる。
いつだったか増設したベランダに干された布団は、太陽を含んでふんわりと暖かかった。
頬を寄せて、少しだけ目を閉じる。
屋根のなだらかな傾斜、いちじくの葉、太陽、活字。
よいしょ、と布団の両端に手をかけて、持ち上げた。
終(1209文字)