『桜旅』
風が吹くたび、大量の桜の花びらがベンチに並んで座る僕たちに降りそそぐ。
彼女の手にある食べかけのソフトクリームを横から一口頂戴したら、花びらがタイミングよく舞ってきた。
「やだぁ」笑いながら彼女が僕の唇から花びらを取り除いてくれる。
京都の桜は満開を迎え、太陽の光を受けて眩しく輝いていた。
次の桜吹雪を受ける前に急いで残りのソフトクリームを口に頬張り、彼女が立ち上がった。
チリン、と音がした。
彼女のトートバッグに、手のひらほどの小さなぬいぐるみが引っかかっていた。
ネコなのかクマなのか、あるいは架空の生き物なのか、濃い桜色のちりめん生地でできた耳のあるぬいぐるみだった。
糸で縫い付けられただけの目鼻は不思議な表情をしている。
鈴が埋め込まれているらしく、軽く揺するとチリンと音がする。
キーホルダーだったものが外れてしまったのだろうか。
頭の上にはループ状の小さな紐もついている。
周囲を見渡してみたが、落とし主らしき姿は見当たらない。
「置いていこうよ」と提案してみるが、彼女は「うーん」と手放しがたい様子だ。
「じゃあ、連れて行く?」
多分そうしたかったのだろう。「そう、ね」と素っ気ない返事をした彼女は、ぬいぐるみの顔が外に出るようにトートバッグの端に入れた。
奇妙な連れが加わって、僕たちは哲学の道を歩き始めた。
満開の桜並木がどこまでも続き、所々に土産物屋や茶屋が開いていた。
リュートを弾く奏者もいた。
砂利と石が敷き詰められ手入れの行き届いた道を歩きながら、満開の桜と彼女に向けて幾度もシャッターを切った。
彼女は時折チリンと鳴るあのちりめん生地のぬいぐるみを掲げて、桜を背景にスマホを向けていた。
地図で見たときはかなり距離があるなと心配していたが、桜を楽しみながら歩いてみればあっという間だった。
暖かい日差しが心地よく、気が付いたら次の目的地まで来ていた。
南禅寺の巨大な門構えを見上げてため息をついていたら、「あれっ」と彼女が声を上げる。
「ぬいぐるみがいない」
ついさっき、水路を渡る橋の途中で見たときは確かにトートバッグから顔を出していたのに、いつの間にか落としてしまったのだろうか。
鈴の音にも気が付かなかった。
足元を探しながら少し戻ってみても、見当たらない。
彼女の残念そうな表情が少し可哀想だが、元々拾い物だ。
「仕方ないよ、行こう」
そう声をかけて彼女の手を取った。
ぬいぐるみへの未練か、彼女がきゅっと僕の手を握り返してきた。
ーーーーーー
南禅寺の水道閣に以前訪れたのは何年前だったかしら。
確かもう子どもたちが中学生や高校生で、進級進学も落ち着いた頃だった。
身の回りのことは一通り自分たちでできるようになった子どもたちに留守を任せて、お父さんと2人で京都旅行をしたんだ。
今ではみんな社会人になって、本当の意味で手が離れて数年。
役職について多忙だったお父さんもようやくこの春、定年を迎えた。
時間ができたからまた京都に行きましょうって誘ったのに、腰が痛くて電車に乗るのを嫌がるものだから、どうしても京都の桜が見たかった私は1人で来てしまった。
あの頃に比べて道は整備されて歩きやすくなったし、驚くほど外国人観光客が多い。
上り坂をゆっくり奥へと進むと、レンガ造りの水道閣が見えた。
記憶のままの姿で、少しホッとした。
前に来たときは上を流れる水を見に行ったことを覚えている。
同じルートを辿ろうと向かった先には、足場の悪そうな急坂が現れた。
思わずサポーターを巻いた左ひざを撫でる。
お父さんの腰のように、私の足も昔のように万全ではない。
一人旅なのに、つまずいて怪我でもしたら大変。無理はよしておきましょう。
記念撮影をする若い人たちの邪魔にならないように、少し離れたところからスマートフォンで立派なレンガ造りのアーチを撮影する。
老眼鏡をかけて、覚えたばかりのLINEでお父さんに送信した。
しばらく眺めていても”既読”がつかない。
返事を待つのはやめて、移動することにした。
南禅寺の法堂の横に立つ大きな桜の木は、満開を少し過ぎて絶え間なく花びらが舞っていた。
坂道を勢いよく流れる水路に気をつけながら足を進めていると、地面になにやら赤っぽい色をした小物を見つけた。
桜の花びらに埋まりかけている。
誰かの落し物かしら。
降り積もる桜の花びらを払って取り上げる。
チリン、と音が鳴った。
動物のような耳のあるその人形は、濃い桜色のちりめん生地が和風な雰囲気を出していた。
誰かの落とし物かもしれないと周囲を見回してみても、この人混みの中では見当がつかない。
人形に目を落とすと、糸で縫われただけの目が私に何かを語りかけているように見えた。
一人旅の道連れに、来ますか?
心で問いかけると、まるで人形からの返事のようにチリンと鈴の音が鳴った。
桜色の人形を口の空いた手提げバッグに入れて、南禅寺の門を出る。
歩道を流れる人の波についていくのもやっとで、途中の柱に手をかけて膝をさすりながら一休みをした。
ちょうど通りがかった空車タクシーの運転手さんと目が合った。
運転手さんがタクシーを止めておいでおいでと手招きをしてくれたので、迷わず乗り込んだ。
「河原町の高島屋まで」
行き先を告げる。
家族へのお土産物を買ったら、早めにホテルに戻ってゆっくりしましょう。
手提げバッグからのぞく人形の表情が、同意しているように見えた。
歩道からあふれる人の波や狭い路地を、タクシーは器用にすり抜けて進む。
四条通りに入ると、途切れることのない車と人の波がにぎやかに続き、現代的な古都の演出で満ちていた。
昔のような風情を感じるのは難しいわね。
タクシーは四条河原町の交差点を過ぎてすぐの場所に止まった。
運転手さんが差し出すトレイに現金を入れながら金額を数える。
あと10円足りない。
交差点は車で混雑していて、後続車はこのタクシーが動き出すのを待っている。
せかすような素振りは見せないが、運転手さんも内心急いでいるだろう。
手提げバッグの内ポケットに入れていた予備の小銭の中から手探りで10円玉を拾い出し、渡した。
「おおきに」
運転手さんの挨拶を背に受けながら、手早くタクシーを降りた。
走り去るタクシーと、車の流れ始めた交差点を見て一息つく。
さて、と思ってバッグの中を見た。
あの濃い桜色の人形が見当たらない。
小銭を探している間に底のほうに移動したのかしらと、中身を手でかき分けて探したけれど、ついに人形の姿を見つけることはできなかった。
タクシーに落としてきちゃったかしら。
落とし物の問い合わせをしようにも、車道を数えきれないほど走るタクシーを見て、自分の乗ったタクシーがどの会社だったのか見当も付かなかった。
ーーーーーー
「ホラ、ここに立って。そのまま、パパの方を見て~」
いくら声をかけても、3歳になる娘は一向に言う通りに動かない。
京都の街中を流れる水路を満開の桜が覆う。
天気も良く、こんなタイミングに巡り合えるチャンスは滅多にない。
ところが娘にとっては、満開の桜を楽しんだり記念写真を撮るよりも、舞う花びらを追う方に興味が向いてしまうようだ。
カメラを構えたまま、夫は苦笑いをしている。
娘がまた何かに気付いて、つないだ私の手を離して歩き始めた。
慌てて後を追うと、植え込みに引っかかっている赤いものを指さして言った。
「わんわん」
止める間もなく、娘はそれに手を伸ばした。
娘の指が触れ、チリンと音がした。
それは濃いピンク色のぬいぐるみだった。
前後2枚のちりめん生地を縫い合わせただけのシンプルな作りで、綿がやわらかく詰められている。
子どもの手で握るのにちょうどいい大きさだった。
おなかの膨らみを触ると中に硬い塊の感触がある。鈴が埋め込まれているようだ。
頭の上に小さなひもがループ状に縫い込まれている。キーホルダーから外れてしまったのかもしれない。
娘はぬいぐるみを私に見せてはくれるが、決して手から離さない。
「誰かの落とし物かもしれないでしょう」と諭しても、「んーん」と口をきゅっと結んで大きな瞳で上目遣いに私をじっと見る。
くっきりとした二重まぶたが娘の意思をさらに強調する。
想いを通すとき、娘は泣くのではなく、こうして頑として譲らない態度で示す。
「もとのおうちに帰してあげないと」それっぽい理由をつけて説得を試みる。
しかし、こんな人の行き交う街中で持ち主を探し出すのは極めて困難だ。
かといって、また植え込みに引っ掛けていくのも放置していくようで気が引ける。
本当に気のせいだと思うが、娘の手にあるぬいぐるみの表情までもが「連れて行って」ときゅっと意思を持って私を見ているように感じてしまう。
夫などは加勢してくれるどころか、ぬいぐるみを離さずその場を動かない娘をちょうどいいとばかりに、桜を背景に撮影したりしている。
日が傾いて少し薄暗くなってきた。
そろそろ駅に移動しないと電車の時間に間に合わない。
「もう、拾っちゃっていいんじゃないかな」娘の肩を持つというより根負けした夫がそう提案する。
確かに、しばらくこの場にいたけれど落とし主が戻ってくる様子はない。
罪悪感がなくはないが、これ以上粘ることをあきらめた。
「じゃあ、行こうか」
希望が通った娘は素直に、ぬいぐるみを握りしめたまま空いた方の手を私とつないだ。
タクシー乗り場に向かって歩くたびに、チリン、と鈴が鳴った。
京都駅に着くと、先にタクシーを降りた夫に熟睡してしまった娘を預けた。
私は支払いを済ませてから荷物を担ぎ、娘を背負った夫と共に改札へ向かう。
夫の肩に顔を押し付けて口を半開きにして眠る娘の顔がちょうど私の目線の高さにあった。
その無防備な寝顔が愛おしく、指の背でそっと頬をなでた。
いつの間にか娘の手からぬいぐるみが消えていたことに、このとき誰も気が付かなかった。
ーーーーーー
電車が到着するたびに、烏丸口の中央改札から人の波がどっとあふれ出てくる。
通行の妨げにならない壁際にもたれかかり、コンビニで買ったソーセージパンをかじりながら、広域マップに目を落とす。
スマートフォンアプリで何でもできる時代だが、常に電源や電波を気にしながら旅をするのは落ち着かず性に合わない。
その点、紙製の地図は情報が集約されていて便利だ。電気も使わない。
自分の経路を直接書き込んでいるから、そのまま旅の記録になる。
次に目指す方向は決まっているので、これから向かう地点とそのルートを確認する。
ソーセージパンの最後の一口を頬張り、空き袋を丸める。
ペットボトルの紅茶を流し込んで今日最後の飯を終えた。
目的地に向かおう。
帽子をかぶり直し、足元に置いていたバックパックを担いだ。
つま先に何かが当たり、チリンと音がした。
足元を見ると、濃い桜色の物体が落ちている。
何かのマスコットだろうか。
動物の形をしたその物体を眺めて思った。
気付かぬふりをして立ち去ろうとしたが、なぜか少し気持ちが引かれた。
落とし物としてインフォメーションに届けるくらいなら、いいか。
かがんでマスコットを拾い上げた。
凹凸のある布の感触を指の腹でなでる。
手の中で再びチリンと音が鳴った。
糸で縫い付けられただけの単純な顔なのに、その表情は旅立ちを期待しているように見えた。
いやまさか。
思いがけない自分の発想を鼻で笑った。
そして駅のインフォメーションを探して構内をくるりと見渡した。
***
京都市外へ向かう幹線道路沿いの街灯の下で、スケッチブックを上下に見開いた。
上半分にマジックで「名古屋」と太く書き、その横に少し小さな字で「方面」と書く。
そして下半分に「長野方面」と書いた。
桜前線を追って北上する旅だ。
車が一時停止できる路肩も十分にある。
市外へ向かう車線側に立ち、行き先を掲げた。
バックパックの横ポケットには、結局連れてきてしまったマスコットがおさまっている。
腹から上がポケットの外に出ているそいつは、自分と同じように両手を上に掲げているように見えた。
終(4803文字)
【あとがき】
2019年4月、京都へ訪れた時の体験をベースに書いた短編小説です。
実際に京都を巡った様子はこちらで紹介しています。
長野の桜は、京都から少し遅れて開花します。
帰宅した頃に開花が始まりました。
春の訪れを二度味わえて幸せです。
このストーリーも配役を考えながら書きました。
終
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