バイク遍歴 : 車種に関わらず乗りこなせなければ大型二輪免許はとれない
私の趣味的なもので比較的続いてきたものはオートバイ(以下バイクと呼ぶ)ぐらいしかないのだ。
20歳までは、バイクのことをぼやっとは知っていたが特段に興味も無く過ごして来た。
1980年代、就職して東京に来たとき、会社の寮に何台かバイクが置いてあった。その中に同期入社の人が持って来た125CCのマシンがあって、ある時の後ろに乗せてもらったことがバイクに興味を持ち始めたキッカケだろうと思う。また同じ寮にカワサキの650が置いてあって大きなバイクぐらいに見ていた記憶がある。
そして、入社した夏には自分のバイクが欲しくなり、お金も無かったのにヤマハオートセンター府中店に行って、自動車免許で乗れる原付を買った。青白のRZ50 だった。まだ2ストロークや4ストロークの違いも全く理解してない状況だった。キックして始動すると2ストローク独特の排気とオイルの匂いが心地良かった。今だにこの2ストロークの匂いは変わらず好きである。RZ50を走らせる事は出来るが楽しみ方がわからない状態であったのだが、50ccの原付きが、直ぐウイリーしてフロントが浮き、速度も時速100kmを超えていたのは鮮明に覚えている。バイクに乗り始めの頃、東京の地理もわからないし、寮以外に知った人もいなかったので何処を走るのがいいのかわからなかった。寮から半径50kmぐらいの中をぐるぐる走って、頭に東京多摩地域の地理とバイクの操作を刻んでいたのだと思う。
累積で1000km弱走ったころ、少しだけバイクの世界が見え、東京多摩地域の地理と距離感がわかって来るとマシンをステップアップしたくなった。 その頃、250ccの戦争が勃発しつつあった。ヤマハのRZ250がカッコ良く速いと言われている中、バイク雑誌でホンダのVT250が発売され、V型エンジンがどうかとか4ストロークがどうかわかってないまま、店頭の黒赤のVTを注文した。社会人2年目で金も貯まってなかったので労金で借りて、意気揚々と新型マシンに乗り始めた。
VT 250 の慣らしが終わると高速道路を使ってあちこちにツーリングに行く事を覚えた。正丸峠、九十九里、妻籠で七笑を呑みまくり、美ヶ原、関西、そして定番の北海道は数回行き礼文の桃岩荘やサロマの船長の家などにお世話になった。札幌駅前には多くのバイクが並び正しくバイクブームだった。鈴鹿8耐久レース、日向までフェリーで行き九州を回るツーリングライダーとして無事に楽しい数年を過ごさせて貰った。VTの最高速はせいぜい時速140kmが限界だったのだが、特に不満も無く、ユースホステルや民宿を使って行きたい場所に自力で行って、道中知らない人々と話すと言う世界を知り、ツーリングがとても楽しかった。
そのVT250のツーリングライダーで特段に不満も無く、根拠の無い上手いライダー自負も出ていた時期、ある日、府中試験場の前の3車線道路を三鷹に向かっていた。赤信号で最前列に止まっていたら、背後から図太い音と共にカタナが来て斜め後ろに止まった。こんなマシンなどVTの敵では無いわと思いつつ青信号になった瞬間全力で加速した。次の瞬間カタナは、VTのずっと先にいた。乗っていたのは髪を後ろに束ねた小柄に見えた女性だった。全く追いつかなく見失った記憶がある。
ああ、加速力が根底から違う、カタナ速い、音カッコいい。 限定解除を目指す事を決めた瞬間だった。
あの当時1980年代半ばは、限定解除試験を試験場で受けるしか大型二輪免許は取れなかった。伝説並みに難しい試験だと言われていた。中型免許を持っていても250ccしか乗って無かったので750ccを動かした事もなかった。府中試験場での試験開始前の暖気を兼ねた教官の試験用マシンの操作テクニックは驚くような内容だった。一本橋に乗ったあとほぼ静止していてまったく降りてこない。リズムよいS字など素人にも違いがよくわかった。初回の試験では、バイクの引き起こしは皆の見ている前なので恥ずかしくて失敗できないので何とかクリアしたが、最初の一本橋かS字で一発アウトだった様に思う。
徹底的な練習が必要だった。 あの頃、府中試験場の近くで限定解除試験の練習場があった。中川練習場、鬼の中川?だったと思うが、小さな土地だが750を使って練習でき指導も貰うことが出来る練習場があった。何度やっても一本橋がダメで、S字がダメで、府中試験場と中川練習場を往復する日々を過ごしていた。
府中試験場の試験車両は、3種類のナナハンだった。CB750F, CB750K, そしてスズキのマシンだったと記憶している。一番難しかったのは3種類のハンドリング、バランス、ブレーキフィーリングが異なっていた事であり、機種の特性の違いが克服できなかった。当時の試験では、どの機種で試験を受けるかは、その場の偶然によるのだ。試験順序は受付順で決まっているが、どのマシンに乗るかは、受験者が順番通りに戻って来ないので、自分の順番が来た時始めて決まるのだ。本当に機種の違いに苦しんだ。 鬼の中川さん曰く、機種の差が気になる様では、大型二輪を乗りこなせず死ぬぞ、と言われたと思う。中川練習場で繰り返し練習を続けていって、不得意に感じていた機種でも一本橋もいつも安定するようになり、S字をリズミカルにトルクで旋回できるようになり、練習コースの短い直線コースで750ccの全力加速、全力制動が出来る様になった頃、府中試験場で合格を貰うことができた。当時は、合格すると他の受験生から拍手が貰えるのだ! これが過去一番嬉しかった。本当に嬉しかった。府中試験場で10回目の試験だった。 この経験、つまり車種を問わず乗りこなせるようになって大型二輪試験を合格できたということは、以後の二輪乗りとしての強い自信となっている。
そして待望の大型二輪生活が始まる。1984年のことだった。
そして、2020年まだ大型二輪に乗っている。