強く想うということが全てな気がする
生島神社で2回目の撮影を行いました。
前回の投稿では、人類が自然に畏敬の念を感じたものが形となったものとしての神社、について話しました。
その後、ある動画を見て似ている話を聞いたのです。写真家であり現代アーティストの杉本博司氏が京セラ美術館開館記念の展示について対談をしている動画でした。
京都市京セラ美術館開館記念展「杉本博司 瑠璃の浄土」関連プログラム対談 浅田彰×杉本博司
https://www.youtube.com/watch?v=85fqfPQir0g&t=304s
22分28秒辺りから聞いていただくとわかりますが、仏像がどのようにして彫られていたかという話をしています。
平安初期には、神社の御神木であった木が枯れたり雷に打たれたあと、そこに神様がいるのであれば、その木から仏像を彫らせてもらおうということをしていました。その彫った者というのは「その木に神が宿っているということが見える」者であり、仏師や彫刻家といった職能的に適しているものかどうか、という話ではなかったのです。
つまり、畏敬の念を持ち神をその木に見出すことができることが重要で、うまく彫ることができるから務まるというものではなかったのでしょう。
以前ローマ法王がある少年に「亡くなった僕のお父さんは天国にいけますか?」と泣きながら質問した動画を思い出しました。
パパは天国にいるの?教皇フランシスコの答え
https://www.youtube.com/watch?v=1huw5izCz7g
彼のお父さんは洗礼を受けている人、つまり”信徒”ではありませんでした。でも、この少年はお父さんが天国に行けたのかを心配し、また思いを馳せ、そして泣きながら教皇に質問したのです。教皇は少年にこの質問に対する返答を少年の耳元で囁いたあとに聴衆に言いました。
『彼の父は神を信じているわけではないが、彼とその兄弟には洗礼を受けさせ、また彼(少年)は、「お父さんはいい人だった」、「お父さんは天国にいますか」と言った。なんと美しいことか。息子たちに洗礼を受けさせたお父さんを彼が遠ざけると思いますか?』
聴衆は「いいえ」と言いました。
前回の投稿で、宮司いわくキリスト教をはじめとする宗教と神道は異なるものである、ということを書きましたが、いまこうして書いていて共通している点も見つけることができました。
それは形式でなく、強い想いであるということです。
お祓いという形式でなく、”覚悟”という強い想いです。洗礼という形式でなく、信じるという強い想いです。仏像を彫るという形式でなく、神様を見出すという強い想いです。
自分も含め、合掌や十字をきるという形式を真似することは容易です。でも覚悟をもつことや信じることなど、他人には見えないおのというものは自分が頑張ったり、意識するしかないと思うのです。嘘をつきながら、強く想うことは出来ません。
私のしている仕事は、目の前にあるものを多くの人も見れる形/形式に変換するという仕事です。ただ、きれいな写真が撮れたとしても、想いの部分が伴っていないとただの形式的なものでしかないのだと思います。
最近、写真の作品を撮っているということもあり、見えない何かが映る写真が撮れることを目指しています。これは心霊写真というわけでなく、その場の空気感(温度や湿度、風、その人やものの歴史/過去など)が視覚的なもの(写真)にも映るように、強く想いながら撮っているということです。
結果的に撮ったものが、RBGやCMYKのような色の情報に置き換えたれたときには同じものとなっていても、その想いがあるかどうかは非常に大事な気がしているのです。
昔の人が鎮守の杜(森)に神を見出し、また祀ったように、私は人に、物に内なるなにかをみいだし、それを撮ることができればと想うのでした。
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