会話の笑いと文脈の脱臼
あるバラエティ番組で。明石家さんまさんとディーン・フジオカさんとのやりとり(以下、敬称は割愛させてもらう)。
さんま「自分が変わっていくのって、いやじゃない?」
フジオカ「自分が変わっていくのって、楽しいじゃないですか?」
さんま「かっこいい~!」
フジオカ (笑)
司会のさんまが、ゲスト席にいるフジオカに質問する。どういう文脈だったか、職業や自分の趣味嗜好がどんどんと変わっていくというトピックだったかもしれない。さんまは、「自分が変わっていくのって、いやじゃない?」と【質問】する。フジオカは答えなければならない。「いやか、いやじゃないか」について。どう答えているか。「自分が変わっていくのって、楽しいじゃないですか?」と答えるが、最後が上昇調になっていることから、【応答】だけれども、【同意要求】にもなっている。つまり、「楽しいじゃないですか」と念を押し、同意がほしいことを示している。ちなみに、フジオカの発話はさんまの発話と少し似ている。どこが似ているかというと、最初のところ。「自分が変わっていくのって」というところと(これはまったく同じ)、さらに言えば、「○○じゃない?」というところ。相手に同意を求めるために語尾が上昇している。こうした文のタイプを付加疑問文という。前の発話をそっくりそのままくりかえすのではなく、一部新たな語句に入れ替えたり、付け足したりすることで、相手との意見や立場のちがいを際立たせるこうしたやりかたを、フォーマット・タイイング(Goodwin, 2006)という(つまり、書式formatをしばりつけるtyingということ。こうすることで、自分がなにを強調したいのか相手に伝えようとする)。
ところで、つぎのさんまの発話は、【同意要求】に【同意】(「うん」)や「楽しいですよね」といった感じで)で応じているのではなく、あるべき応答をせずに、急に【評価】という別の駒(発話)を差し挟むことで、会話の流れをぐっとせき止める。この言い方が、まるでファンの女性が両手を胸に当てて、テレビ局から出てきたフジオカに「かっこいい~!」と叫ぶ様子を再現しているかのように見える(これはわたしの勝手な想像。だけど、いち視聴者のわたしにそういう想像をさせたのはまちがいない。とにかく、こんな感じでさんまさんは言ったのだ)。社会学者アーヴィング・ゴッフマンは、「話し手」と一口にいっても、話している人は、言葉を放つそのあいだ、実はいろんな役割を同時に果たしていることを明らかにしている。ここでは、さんまの「かっこいい~!」について考えてみよう。女性のような声色と身ぶりを用いることで、多分さんまは客席の「女性観覧者ら」の代弁をしたのではないか。つまり「かっこいい~!」というのは、さんまが「発声者」(声に出した人)にはちがいないけれども、そう考えている「主体」は番組の観覧者である。そこで、さんまは話し手である「自分」をふいに消して、「観覧者」を召喚したのだ(と思う。もう少し分析が要るかもしれない。)それで、不意をつかれてディーンは笑ってしまう。観客たちもつられて笑う。
会話の流れから言って、【評価】(「かっこいい~!」)は、【同意要求】(「楽しいじゃないですか?」)と対をなしておらず、唐突だ(つまりフジオカに対する答えになっていない)。もしふつうに、この【同意要求】に答えるなら【同意】(たとえば「楽しいよね」)でないといけない。このさんまの【評価】は、ディーンの次の一手を封じ込める。会話の流れで王手を取ってしまう。これがすごい。王手をとってしまうので、笑うしかなくなる(もちろん、その王手返しをして、笑いを自分の手柄とする強者もいるのかもしれない)。このように、笑いにもいろんな種類がありそうだ。必ずしも内容のこっけいさだけにわたしたちは笑うのではないのだろう。こんなふうに、会話の流れを突如としてせき止めることでも起こる。
タモリ倶楽部の昔の放送分から。タモリさん、浅草キッドの玉袋筋太郎さんらが、居酒屋で食べている(以下、敬称は割愛)。店員がテーブルに刺身とその「つま」を持ってくる。「つま」とは、大根を細く切った刺身の横に添えられるあの大根のことだ。「しろつまです」。店員がテーブルに置く。聞き慣れない言葉だったからか、タモリが店員に尋ねる。
タモリ(店員へ) 「大根はしろつまっていうんですか。」
玉袋(タモリへ) 「映画化されてますからね。」
タモリ (沈黙)(はてな?という表情)
玉袋 「白妻(しろつま)物語、なんつって。」
一同 笑
タモリが店員に【確認】のために【質問】(「大根はしろつまっていうんですか?」)をしている。流れから行くと、ここで店員はそれについて【承認】して応答するのが普通である(「はい」)。しかし、ここで突如玉袋が会話に割りこむ(「映画化されてますからね」という【情報の提供】)。この入り方が美しい(というか、このやりとりが妙に好きだ)。すごいと思うのは、ここで沈黙を起こさせている点だ。たぶん、もしも「しろつまっていったら、」という入り方をすると、店員が答えるまもなくタモリと店員の会話に割りこむので、礼儀に欠く印象を与えるのではないか。しかしこれはこれで、話の文脈としては正しいことをしているはずなのだ。同じトピックなのだから。だけどそれゆえに、こっちのパターンだった場合、店員の話をさえぎってまで自分が発話のターンを取ろうとしたというので、きっと心証を悪くするだろう。
「しろつま」とは白い大根のつまのことだ。その「つま」を主題にした映画があるという。そう断定している。「映画化されてますからね」というのはいかにもそれを知っているという知識のアクセスを持っていることを主張している。しかしそれは嘘である(つまり偽の【情報の提供】を演じている)。そんなものあるはずがないのだが、「なんのことだ?」とコンマ何秒、一瞬めまいがさせられる。「何を言っているんだ」という空気が流れる。ここもやはり会話の流れを一瞬せき止める。
笑いは、会話の流れをいったん止めて、ご破算にするという威力を持っているように思う。最初から場を作り直すということをやる。笑いという暴風雨はそれまで植えられた話し手たちの発話という草木をなぎ倒し、更地と化すような装置にもなる。不思議だ。
笑いが一瞬作り出す、このご破算の状態は、あながち馬鹿にできない。少なくとも笑いの後には、一瞬だれがターンを取っても良いような、文脈の脱臼、あるいは権威の喪失が起きる。ゲームがリセットされるわけである。笑いがもたらすフラット感。ある漫才師の方から、コミュニケーションや文化学習のために、漫才で多文化や外国語学習をするという企画を学校に持ち込んだところ、学校には遊びを持ち込まないでほしいと言われたと聞いた。学びはまじめで、遊びはふまじめなのだ。そのふまじめなものを学校に持ち込んではいけない。
でもこの話を聞いて、わたしはこうも思った。「まじめかふまじめか」という問題だけでなくて、案外、漫才の笑いがもたらすこの文脈の脱臼や権威の喪失が、実は学校には少し厄介だと思われたのではないか。
わたしは、相手とのあいだに対等性を築けるかどうかによって、その人の成熟の度合いを量ることができるのではないかと思う。よく、〈偉い〉人になればなるほど、ウィットとユーモアに富んでいるといわれる。そうした人は、自らが権威の立場から降りて、だれしもに発言権を与えるセンスと方法を持っているのではないだろうか。
Goffman, E. 1981. Forms of Talk, Philadelphia: University of Pennsylvania Press.
Goodwin, M. H. 2006. “Participation, Affect, and Trajectory in Family Directive /
Response Sequences,” Text & Talk, 26(4 / 5): 515-543.