学習者を評価しない教育をめざして

その人がもっている能力など、本来は「度量衡」(内田樹さんの言葉を借りれば)によって量れる/測れるものではない。しかし、日本の教育はいつも、「いかに学習者のパフォーマンスを評価するか」を前提としているように見受けられ、教育学に足を踏みいれながらも、わたしは戸惑っている。

「それが学校の制度だからだ」といわれるかもしれないが、「ルール」だからというのは理由になっていない。そうした制度をなぜ無批判に内面化できるのだろうか。一人ひとりの学習者よりも、学校システムが上位にあり、そのシステムに奉仕する学習者であらねばらないとするならば、学習者とはいったい何を学習しているのだろうか。

わたしは別に教育学者とけんかがしたいわけではない(むしろわたしが負けることはよく自覚している)。ただ、いち生徒/学生だった体験として、なぜそんな評価システムに、当時苦しめ続けられなければならなかったのか、不思議で仕方がないのである。そして現在の生徒や学生も、少なからずそうした経験をしているのではないか。評価システムに拠らない、一人ひとりの学習者のパフォーマンスをもっと引き出せる方法はないのか、と素朴に知りたいのである。

以下の話は、ゼミの学生さんたちにも伝えておきたいことなのだが、なかなか限られた授業時間ではここまで伝えられないこと、そしてわたしが口で説明するよりも、文字にしておいた方が正確に伝わるかもしれないと思ったので、書いておく。

人が学ぶにもいろんな環境がある。でも前にも書いた通り、「何かを学ぶ」というとき、それは学校教室の椅子にしばりつけられることによってしか得られない体験だと考えている人が多いように思う。バカ・ピグミーの子どもの学びは、日常生活の多様な活動に埋め込まれている。狩猟採集活動や家事手伝いは単なる労働ではなく、彼らがそこからいかに様々なことを経験的に学んでいるかをわたしたちは目の当たりにする。

この話をすると、しばしば「学びとは学校教室でしかおこなわれないものだと思っていた」ともらす学生がいる。わたしはをそれを非難しているのではなく、むしろそのことを理解してくれるみなさんの純粋さに畏敬の念を抱く。

そうなのだ。アルバイトでも、本屋での立ち読みでも、はたまた家業や家事手伝いにしても、そこにはいろんな学びが埋め込まれている。いつなんどきでも学びの機会はあるのである。別に受験勉強だけが学びだと思う必要はない。というよりも、その考えはあなたの可能性を限りなく狭めてしまう。わたしは、世界を細かく割って見えるようになることであれば、それはいずれも学びであると確信する。

たとえば料理を例に挙げる。豚の生姜焼きを作ろうとして、生姜から切るか豚から切るか。おおよそ多くの人は、生姜から先に切るのではないかと思う。それは豚の油が、先に包丁についてしまうと、後で切る生姜に豚の油がついてしまうからである。そうなると、取り分けて保存しておく生姜の半分を腐らせてしまうかもしれない。些細なことだが、これもまたひとつの学びである。しかし、こういうことはやってみないと気づかない。包丁を使った作業というアクティヴィティひとつ取っても、具材をどの順番で切るか、刃のどの部分で具材を切るか、錆びさせないよう包丁をどうやって保管するか、など様々なコツや知恵が潜在している。このアクティヴィティにもまた、細かく割ると見えるようになる世界が潜んでいる。

もしあなたがスポーツに力を入れているのであれば、スポーツによって得た何らかのブレークスルーや、身体変容の体験を大切にしてほしいと思っている。

卒業論文の執筆もスポーツも、ある一点においてよく似ている。それは、「自分の潜在力を引き出すこと」である。つまり、ブレイクスルーを体験することが至上命題である。そうしたブレイクスルーの体験(つまり自分の身体感覚が決定的に変わったと思える瞬間に自分が立ち会うこと)があれば、卒業論文を書くこともまた、そうした体験をみずからに誘発するための道具だと考えてもらって構わない。思想家で合気道家の内田樹さんがこんなことを書いている。

陸上選手が走り方を変えたり、水泳選手が泳法を変えたり、野球選手やゴルファーがスイングを変えることにつよい抵抗を示すのは、身体の使い方を変えればパフォーマンスが向上することを信じていないからではなく、身体の使い方を変えたとき、いったい何を計測してよいかがわからなくなってしまうことを恐れているからである。(内田, 2013 p.76-77)

これを読んでみなさんはどう思うだろうか。わたしは、自分の身体のパフォーマンスの変化に対して、なぜ数値によって納得するということがあたりまえになっているのか不思議に思う。自分の身体のことなのに、数値という外在基準によってそれをたしかめるということに、どこか違和感があるのだ(健康診断もそうだけれども)。しかし重要なのはそれだけでない。内田さんの文章に戻ろう。

たしかに動きは変わった。でも、「身体を細かく使えるようになった」ことも、「動きに甘みが出てきた」ことも、「運動精度が上がった」ことも、数値的には示せない。「運動の質が変化する」とは、何がどう変わったのかを数値的に表示することができない。 
 単一の度量衡で身体運用を数値化するというのは、武道的には致命的である。というのは、武道においても、身体技術の向上は、ほとんどの場合、「それまでそんな身体の使い方ができるとは思ってもいなかった使い方」を発見するというかたちをとるからである。
 それまで自分自身の身体運用を説明するときに用いていた語彙には存在しない語を借りてしか説明できない働き、そのようなものが「できてしまった」後に、「私は今いったい何をしたのか?」という遡及的な問いが立ち上がる。それがブレークスルーという経験である。
(内田, 2013 p.80-81。いくらか要約して引用した)

卒業論文も同じである。論文は、定型的な結論を並べて形だけを整えればよいものではない。そうした論文の書き方もあるかもしれないが、「文章」ではなく、「文書」を書くことはいたって退屈であり、それをやり続けていれば、それもやはりその人の潜在力を限定してしまうかもしれない(ただし論文を書きあげるということはまた、それはそれでスキルが必要であることは言うまでもない)。

個人の潜在的なパフォーマンスや、ブレイクスルー経験は、度量衡の評価の枠組みになじみにくい。学習者一人ひとりがもっている多様で多彩な身体能力は、その可視的な部分の一側面だけが切り取られ、度量衡のレンズによって吟味されるか、または「あなたのしていることは受験勉強ではないからやめなさい」と言われ、永遠に葬り去られてしまうのである。そうしたことを続けていて良いのだろうか。なぜそれに耐えられるのか。わたしには不思議である。

日本の教育は、あえてイノベーションをおこさないように、「新たな価値創出」の芽をわざわざ摘み取って、イノベーションの減産調整をおこなっているように見えてしまう。なぜそんなことをするのだろうか。わたしはおそらく、安冨歩さんのいう「立場主義」(日本社会では「人権」よりも「立場」が尊重される)や、別役実さんが言っていた「関係の中の『孤』」の議論と関わっているのではないかと考えているが、ここでは論じない。

しかし、ではこうした問題意識のうえでどのような「指導」が可能なのか、わたしにはまだ分からない。結果的に、大学や社会による度量衡にしたがって、学生たちのパフォーマンスを評価し、またわたしも評価されるという方法しか、この国の制度にはないからである。そうなれば、この度量衡と戯れるしかない。ただし、これは単なる度量衡なので、学習者のみなさんはそれによって自己否定されたなどと思わないでほしい。度量衡をベースにして、あなたは自分なりの度量衡を作りあげること。むしろそのほうが大事だと思う。 







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