安心して考える時間
授業では、教師や生徒といった、社会的属性ではなく、一人の人として見ることができるかどうかの人的属性(つまり、その人らしさ)にこだわりたいものだ。その人とわたしとの位置づけは、何も互いの社会的属性をここではっきりさせたいわけではないからだ。(たとえば、「きみは生徒で、わたしは先生だ」といったこだわり)。
ゼミは「知識伝達型の授業」ではない。知識伝達型の授業は、スター型のネットワークを前提とする。しかし、全方位対話型のゼミは、メッシュ型を理想とする。理想とする、とわたしは思う。スター型とは、中央の教師にすべての生徒が接続されるネットワーク形態のことで、メッシュ型とは、各生徒と一人の教師が相互接続する形態のことである(下図 ※図の作成にあたっては、https://manabu.quu.cc/up/6/e62470.htmを参考にした)。
社会に出ると、どんなコミュニティでも、(医師と患者、カルチャーセンターの教師と受講生、コンサルタントと相談者、困難を抱えた被援助者とボランティアスタッフetc)、このメッシュ型の相互行為秩序を前提にしなくてはいけなくなる。なぜそれを学校は教えないのか。社会に出る前の最後の砦(とりで)が大学のゼミならば、それを教え、身体化させられるのはこの期間しかない。もちろん、これは別に大学でしかこれを学べないものではない。居酒屋でも、サークルでも、自分が楽しそうだと思うコミュニティに入っていけば、自然にそれを経験するだろう。そこには、自分の知らない職業の人や、子どもを育てた経験がある人、障害を持っている人、何かが人一倍得意な人。いろんな経験を持っている人がいる。
アクティヴラーニングといおうが、教えない授業と言おうが、その名前にはこだわらないが、とにかくメッシュ型の相互行為環境を、ゼミの参加者はもっと意識しないといけない。
海外留学の経験者は、やはりここに気が付くのである。なぜ日本の組織や集会は、スター型を志向するのかということに。そこで留学経験のあるゼミの参加者は、みずからこのメッシュのノードとしての役割をみずから買って出てくれることがある。具体的には、教師と生徒Aが話しているところに、自らもAに対して質問する、またBであればBに対して話しかけたり、またさっきまで話していなかったDに話題をもちかけたりする。教師は、これはA, B, C, Dとあるタイミングでは同じ立場に属し、またあるタイミングではその場を俯瞰的に見て、会話の文脈全体について方向付けを行うといった、メッシュに入り込むことと、メッシュからいったん抜け出すことの両方をくりかえす。これはファシリテーターとしての役目でもある。
ゼミの学生たちは、「しゃべれない」のではなく、コミュニケーションチャンネルを選択した結果「しゃべらない」のである。ゼミという相互行為環境がどういうものかについて、彼らは「学校教室における相互行為環境」を想起しているはずである。学校教室における相互行為環境では、彼らは学校教室空間において、ターン交替をおこなおうとするときに、どういった秩序を守らなければならないかについてかなり考察している。そこで、授業の進行を妨げないように、あるいはその文脈から外れないように、できるだけターンを自ら取らないように配慮している。しかし、ゼミの目的は、ゼミという相互行為環境システムに奉仕するよう、参加者たちは規律訓練することではない。本来の目的は、自ら意見を述べ、その意見が他の参加者とどう違っているのか、どこが共感できるか、ともに考え合うことである。
とはいえ、なかなか自分の意見を語ることは難しい。そこで、その人個人の固有の経験から話し始めることを拠り所にすることで、スター型から、メッシュ型の相互行為秩序に、参加者に気付いてもらうことは、ある程度は達成できる場合がある。わたしはカウンセラーではないのでその経験がないが、たぶんオープンダイアローグで行われていることは、それと共鳴する点があるだろうから、興味を持っている。
ただ、メッシュ型だからといって、やたらめったら相互につながりすぎるのことは目指されない。関係が切れているわけではないが、そうっとしておく。この時間が不安なく維持される。そういう安心して考えられる時間が、ゼミの時間だけでも確保できたらいいなと思う。そうしてまとまった時間の確保し、そこで育んだ価値を言葉にして、相手に意見を投げてみる。それを許す関係性づくりが、いま学びの場に必要だ。
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