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中身と見た目

中身
ものごとはあるがまま、本質は変わらない
例えば、いくら長いこと水中にあっても、魚の玩具は魚にはならないし、イバラからブドウはとれず、アザミからイチジクはとれない。

自然は真空を嫌う。だから、小石は山から来るし、湾ごとに違う風が吹く。

自然の世界には刈り揃えられた芝生のような場所はない。なにしろ、熊手で追い払っても、自然はいつも戻ってくるから。

実際、自然は自然の摂理に従い、猫は猫の摂理に従って鼠を追いかける。

そう、猫は神を喜ばすために鼠を捕るのではない。
子供に付けられた名前がその子にとって自然なものになるのと同じように、人間の本質は世界中で同じである。

それゆえに、人間は時にはちっぽけな存在で、そこにすら届かない人もいる。

だから、どの石の下にも必ずエビがいることや、すべてを見通す存在の前では、すべてはおのずから明らかになることを忘れてはならない。

見た目
庭のありさまは庭師のありさまである。
外見が中身をあらわすのなら、服装が人を作る場合もあろう。尻尾と胴体が合わさると、象の姿が見えてくることは多い。背景には前景が必要であり、山のそばには谷がある。
平坦な国では丘が山に見える。だから、いつでもそのものが、少し足りない形で表に出る。そして、世界はあらゆる種類の人が集まってできている。

違う池には違う魚がいるし、すべての靴が同じに作られているわけではないので、相手の靴をはいて1キロ歩くまで、その人を判断してはならない。
人は見かけによらぬもので、見た目に意味はない、行いがすべてであることを忘れずに。目は心の窓緒だから、目に見えないことを心が悲しむことはない。

虚の見せかけ
本を表紙で判断するな。僧帽をかぶれば修道土になれるわけではないし、身なりや顔が良くても善人とは限らない。
きれいな肌が歪んだ心を隠していることは多い。黒い魂は白シャツを着るというし、結局のところ、衣装は人を作らずなのだろう。首長のターバンの下に猿がいることもよくある。

逆に、能ある鷹は爪を隠す場合もある。水は潜水夫を欺くことがあるから、油断は禁物。水面が静かでも水中にワニがいないとは思うな。サツマイモが必ず甘いとは限らないし、葉が一番多い木に美味しい実がなるとは限らない。白い液体が全部ミルクなわけではないことや、黒いものが全部石炭なわけではないことは言うまでもないし、サンダルと靴は別のものである。
だから、中身をよく見よう。駄馬も良馬と同じだけ食べる。冷めた灰の下に燃えさしが残る場合も多い。食べ物は好きにしても服装は周囲と同じにするのが無難だ。

善は囁き、悪は叫ぶのである。

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