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竹家食堂神話の虚構性(下)

 「ラーメン」という名前は竹家食堂創業者の妻大久タツが大正時代末に発案したもので、これが全国に広まった。

 この話はタツの息子や孫が語り継いできた話です。タツは実際に子供や孫にそう語っていたのです。

 まず事実から言うと、「ラーメン」という名は竹家食堂発祥ではありません。「ラーメン」という言葉は明治時代の横浜中華街(南京町)で産まれ、タツが発案したとする大正15年(11年説もある)には既に東京である程度広まっていました。

 実例をあげましょう。

 明治43年創業の来々軒はラーメンを含めた広東料理ブームを引き起こし、東京そして日本にラーメンが定着する最初の起爆剤となりました。

 来々軒のメニューにおける支那そばの名前は「らうめん」、これを店員はラーメンと発音しました(『明治語録』 植原路郎)。

来々軒メニュー

(『ベストオブラーメンin Pocket』 (麺’s CLUB編)に掲載されている、来々軒三代目尾崎一郎が所有していた昭和初期の来々軒のメニュー写真)

明治語録

 大正11年ごろ池袋にいた詩人のサトウハチロー(佐藤八郎)は中華料理店て支那そばばかりを食べていたので「ラーメンの八」というあだ名がついていました(『僕の東京地図』)。(注 『ぼくは浅草の不良少年  -実録サトウ・ハチロー伝-』(玉川しんめい)によると池袋周辺に移住したのは大正11年)

僕の東京地図P233

僕の東京地図P234

 他にも竹家食堂以前にラーメン(らうめん)という名が使われていたという事例/証言はあります。詳しくはこちらをご覧ください。

 小菅桂子は『にっぽんラーメン物語』(文庫版)において、タツの夫である創業者大久昌治や竹家食堂の中国人コックが、当時東京や横浜で流行していた「ラーメン」という言葉を知っていただろう、と指摘します。

にっぽんラーメン物語文庫版P90

 私は、夫や中国人料理人だけでなく、大久タツ本人も東京や横浜で支那そばが「ラーメン」とよばれていたことを知っていたと思います。

 そう判断する理由は、ラーメン命名の前段階のエピソードにあります。

 大久タツの証言をベースにしている大久昌巳の「竹家食堂物語」(『「竹家食堂」ものがたり』所収)によると、タツは「肉絲麺(ロースーメン)」を差別用語を含む「チャンソバ」というあだ名で呼ぶ日本人客に頭を悩ませていました。

「竹家食堂」ものがたりP104

 タツは「肉絲麺(ロースーメン)」という文字が馴染みがないからあだ名で呼ばれるのだ、わかりやすい漢字に変えれば「チャンソバ」と呼ばなくなるだろう、と考えます。

 そこで麺が柳の枝に似ていることから「柳麺」と命名し、「肉絲麺」という名前を廃止します。

「竹家食堂」ものがたりP106

 しかし「柳麺」と名前を変えても「チャンソバ」というあだ名で呼ぶ日本人客は減らず、最終的にカタカナで「ラーメン」にすることで解決した、というのがタツが語るストーリーです。

 ここで、明治30年代に横浜中華街でラーメンを食べていた、中国人の古老の証言を見てみましょう(『食の地平線』 玉村豊男)。

”その頃、中華ソバも、たしかにあった。”
”それはラオミンと呼ばれていた。”
字で書けば、柳麺である。麺の姿が柳の枝に似ているから、そう呼ばれた。
このラオミンは、広東のものである。中国麺食文化の中心である北京の麺が手で引っぱって延ばした”拉麺”であるのに対して、南方の”柳麺”は強い力で圧延してから包丁で細く切るので、チリチリしていない、真直ぐに伸びた麺であった。”

食の地平線

 柳の枝からなづけられた広東料理の柳麺は広東語で「ラウミン」と発音します

 漢字を広東語で発音するサイトで「柳」「面(麺の簡体字)」の発音を聞く→


 これが日本人には「らうめん」「ラーメン」と聞こえました。聴覚が発達している作曲家の團伊玖磨も、横浜中華街の「柳麺」の発音はラーメンであったとしています(『続々 パイプのけむり』)。

続々パイプのけむりP26




 さて、横浜中華街/東京の柳麺(ラウミン、らうめん、ラーメン)と大久タツの証言を比較してみましょう。

柳麺比較表

 大久タツは何千とある漢字の中から、たまたま横浜中華街/東京の広東料理と同じ「柳」の字を、全く同じ「麺が柳の枝に似ている」という理由で選んだ。

 さらに、50音の中から、たまたま横浜中華街/東京と同じ「ラー」の発音を選んだ。

 そんな奇跡的な偶然があるはずはありません。大久タツは横浜中華街に通っていた夫や竹家食堂の中国人料理人から、当時横浜や東京で流行していた「柳麺」と、その名の由来を聞いていたのです。

 当然のことながら、それが広東語でラウミン、日本人によってらうめん、ラーメンと呼ばれていたことも、知っていたのです。

 竹家食堂のラーメンも、ラーメンという名称も、横浜あるいは東京から伝わったものです。

 大久タツは子供や孫に竹家食堂の伝統を自慢するために、ラーメンという名前は自分の発明であるという「作り話」を聞かせただけなのです。