見出し画像

無料公開『牛丼の戦前史』第一章「ミスター牛丼、窮地に立たされる」その5「なんどき屋の模倣からはじまった吉野家のチェーン化」

『牛丼の戦前史』の第一章「ミスター牛丼、窮地に立たされる」を無料公開いたします。

noteにおける近代食文化研究会の著作・無料公開一覧はこちらから。

それでは『牛丼の戦前史』第一章「ミスター牛丼、窮地に立たされる」をお楽しみください。


5.なんどき屋の模倣からはじまった吉野家のチェーン化

なんどき屋という店名は、いつ何時(なんどき)も店を開けている、つまり24時間営業という特徴から名付けられたものだ。

吉野家をはじめすき家に松屋など、なぜ牛丼チェーン店は判で押したように24時間営業なのか。それは、このビジネスモデルをなんどき屋が確立し、その有効性を証明し、吉野家がそれをまね、さらにすき家や松屋がその吉野家をまねたからだ。

昭和44年2月15日号の『週刊新潮』に、なんどき屋社長塚越正吉の密着レポが載っている。そこには、去年つまり昭和43年にチェーン店第一号店を新橋に出店した、吉野家の失敗が描かれている。

”昨年末に八十年の歴史を持った牛めし屋のシニセが、同じ新橋の近くで二十四時間営業の店を出した。しかし、たった一週間で、看板は十六時間営業に塗り替えられ、間もなく八時間営業に戦線を縮小してしまった。“

「年中無休“牛めし屋”繁盛記」『週刊新潮』昭和44年2月15日号

松田瑞穂は吉野家チェーン店第一号店を、なんどき屋本拠地の新橋に開店し殴り込みをかけたが、それまで築地における8時間営業の経験しかなかったからか、24時間経営の模倣に失敗してしまったのである。

最初から24時間経営を模倣していることからも、セミナーで学んでチェーン化を思いついたという松田の話が嘘であることがわかるだろう。松田瑞穂が吉野家のチェーン化を志したのは、なんどき屋の成功を模倣してのことなのである。

それにしても先輩であるなんどき屋の本拠地、新橋にいきなり殴り込みをかけるとは、松田瑞穂の鼻っ柱の強さを感じさせるエピソードではある。

さて、今でこそファストフードのチェーン化というのは珍しくもないが、なんどき屋が始めた当時は、牛めし(なんどき屋では牛めしという)のチェーン店を作るという発想は、実にクレイジーなものであった。

レストランのチェーン店ならば、後に述べるが明治時代から事例がある。ファストフードのチェーン店も、アメリカにおいては戦前から実例が存在する。

しかし、日本のファストフードチェーンとなると、なんどき屋のチェーン化開始時期昭和36年というのは、異常に早い時期なのである。

ファストフード店の代表格マクドナルドの第一号店が銀座にできたのは昭和46年、なんどき屋チェーン店化の10年後である。

日本初のハンバーガーチェーンドムドムバーガーが昭和45年創業。同じ年には、ケンタッキーフライドチキン、ミスタードーナツの第一号店も誕生している。

和製ファストフードの雄、立ち食いそば屋としては、富士そばの昭和42年というのが最も古い事例だ。なんどき屋の昭和36年というのが、いかに突出して早いかがわかるだろう。

現在も新橋にあるなんどき屋。このカウンター式の牛丼スタンドと、24時間営業の居酒屋の2店舗が存続している
なんどき屋の牛めし

早いだけではない。昭和36年当時における牛丼という食べ物のステータスを考えても、それをチェーン化するというのは、正気の沙汰とは思えない所業であったのだ。

前掲の『週刊新潮』記事において、なんどき屋創業者塚越正吉は、開店当時の牛丼のステータスについて次のように回想している。

”開店当時、そのころは都内に牛めし屋が十軒足らずだったが、さすがに戦前の牛めしの味を覚えている年配客ばかりでハリアイがあった。”

”「ウシ飯ってなあに。おいしいのかしら・・・」などといわれると、いくらお客さんでもガッカリである。ビフテキを知らない人はいないが、明治以来の牛めしの味をご存じないとは、商売を離れてもお気の毒に思えるのだ。”

「年中無休“牛めし屋”繁盛記」『週刊新潮』昭和44年2月15日号

なんどき屋開店当時の牛丼という食べ物は、年配客しかその存在を知らない絶滅危惧種であった。アメリカで成功を収めているハンバーガーならまだしも、絶滅寸前の牛丼をチェーン店化するというのは、まったくもってクレイジーな発想だったのだ。

後述の昭和42年の『月刊食堂』記事では、なんどき屋の牛丼を”食堂のチェーン化を考えている経営者が、思いもつかないような牛めしという商品”と紹介している。長年築地で吉野家を経営していた松田瑞穂が、牛丼のチェーン店化という発想をもっていなかったのも、当然のことだったのである。

次の記事 その6「吉野家はなんどき屋の何を模倣したのか」