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新刊無料公開『新しいカレーの歴史 上』 “その5 イギリス人にとってカレーは残り肉を処理する料理”なのか

新刊『新しいカレーの歴史 上』〈日本渡来以前の諸国のカレー〉発売中です。よろしくお願いいたします。

新刊では海外の最新研究動向をふまえ、嘘・間違いだらけの日本のカレー史研究を全面的に刷新します。

『新しいカレーの歴史 上』冒頭部分無料公開 その5です。

その5 “イギリス人にとってカレーは残り肉を処理する料理”なのか

(前回の「その4」の後にドライカレーの起源について、カレー粉と同じく重要なアングロインディアンの発明=カレーペーストについての説明が入りますが、この無料公開部分からは割愛しています。)

 次に“イギリス人にとってカレーは残り肉を処理する料理である。残り肉がでないということはカレーを作ろうとは思わない、ということである”という森枝の主張について。

 『BEETON'S BOOK of HOUSEHOLD MANAGEMENT』の場合、9つのレシピのうち残り肉(Cold Meat)を使うレシピはご覧の通り4つのみ。他の5つはシーフードや新鮮な肉を使用するレシピであり、Cold Meatを使うレシピは半分以下だ。やはり森枝は『BEETON'S BOOK of HOUSEHOLD MANAGEMENT』のレシピをほとんど読んでいない。

 サーモンカレーはボイルドサーモンの残りを使うとあるが、森枝が言う残り肉とは“日曜日に巨大なローストビーフを焼く、というのが核になる”=獣肉や鶏肉のローストのCold Meatを意味しているのであり(森枝 1989:214)、サーモンカレーはこの定義に当てはまらない。

 そもそも『カレーライスと日本人』においては、19世紀のイギリスのカレーの大きな特徴である、シーフードカレーの存在が全く言及されていない。森枝がビートン夫人の料理書に登場する、3つ(タラ、サケ、ロブスター)のシーフードカレーレシピを読んでいないからだ。

 そして「LOBSTER CURRY (an Entree)」=ロブスターカレーのレシピ名に付随するan Entreeの文字。これは、dinner=正餐のアントレに出すカレーという記号。残り肉の処理どころか、ご馳走として提供するカレーもあったのだ。後に述べるが、カエルの肉を使ったfrog curryも、ホテルのディナーコースに出されていた例がある

 当時のイギリス中流家庭においては、定期的に客を自宅のディナー、つまりホームパーティーに招くという半ば義務的な習慣があった(Brears et al. 1997:282-284)(Freeman 1989:183-184)。

 そんな中流家庭の読者のために『BEETON'S BOOK of HOUSEHOLD MANAGEMENT』にはディナーの献立例が12ヶ月×8パターン=96パターン掲載されており、そこにはLOBSTER CURRYが7回アントレとして登場する(Beeton 1861:904-951)。

 アントレというのはフランス料理からイギリスに導入された概念。当時のアントレは、ディナーの中でも最も重要な位置づけにあった。

 “アントレ=魚料理の次にすすめられるローチ(引用者注 ロースト料理)を除く外の鳥獣肉の料理を指して申します、アントレは御馳走のうち一番重きをおくものですから随而(したがって)最も美味に調理されてあります”

 これは日本のフランス料理界を牽引してきた帝国ホテルの初代料理長、吉川兼吉とその息子の吉川林造が書き残した、帝国ホテル所蔵レシピ書におけるアントレの説明。

 つまり、客をもてなす際の最も重要なご馳走として、『BEETON'S BOOK of HOUSEHOLD MANAGEMENT』はロブスターなどのカレーを推奨しているのだ。

『BEETON'S BOOK of HOUSEHOLD MANAGEMENT』における、4月の18人ディナー献立例。アントレの4品のうち1つが「Curried Lobster」(Beeton 1861:922)

 ディナーにおけるご馳走として、ロブスターカレーとイギリス伝統のドライカレーが出されていた事例が、日本に存在する。日本郵船の外国航路船は高級料理を出すことで有名だったが、1911年4月9日の三島丸のコースディナーのアントレに、「Lobster & Dried Curries」が出されていたのだ(『YUSEN 2006年3月号』)。

 『BEETON'S BOOK of HOUSEHOLD MANAGEMENT』のディナー献立例には、「LOBSTER CURRY」以外にも「Curried Fowl」が4回、「Curried Rabbit」が3回、「Curried Sweetbreads」が1回登場する。ビートン夫人が高級なご馳走として位置づけているカレーがこれらのカレーだ。

 「CURRIED FOWL」のレシピは、森枝が読んだ「CURRIED FOWL OR CHICKEN (Cold Meat Cookery)」とは別のレシピとして記載されている。ご馳走としてのニワトリのカレーと、残り肉を使用した日常のカレーレシピを別々に記載しているのだ(当時の鶏肉のカレーがなぜご馳走だったのかについては後述)。

 そしてご馳走の方の「CURRIED FOWL」のレシピには次のような注釈が書かれている。

 “This curry may be made of cold chicken, but undressed meat will be found far superior”
 “調理済みのチキンの残り肉を使用してもよいのですが、調理していない生(undressed)の肉を使用したほうがはるかに美味しいのです”(Beeton 1861:458)

 森枝は、日曜日に巨大なローストビーフを焼く習慣がなくなった第二次世界大戦後のイギリスの家庭では、カレーを“家で作って食ぺるようなことはなくなってしまった”(森枝 1989:213)と主張する。

 “残り肉を何日も食ベ続けられるような巨大なローストビーフは夢の世界になってしまった。日曜日だけで食ペきってしまうような小さい肉かチキンかポーク(これまた巨大な塊料理にはなりえない)などになってしまったりした。”
 “イギリス人にとってカレーは残り肉を処理する料理である。残り肉がでないということはカレーを作ろうとは思わない、ということである。”(森枝 1989:216)

 イギリス人にとって“カレーは残り肉を処理する”だけの料理ではないし、カレーは巨大ローストビーフとともに第二次世界大戦後に滅びたわけでもない。カレー粉を使った伝統的カレーは、大きな肉を何日かかけて食べる習慣がなくなった後も、1970年代まで家庭で作られていた。

 Jo Monroeは『STAR OF INDIA』を書くに当たって、様々な世代のイギリス人に「最初にカレーを食べた記憶」についてヒアリングを行った。その結果、1960~70年代に子供時代を送ったイギリス人の最初のカレーは、リンゴ、干しブドウ、カレー粉(combination of apple, sultanas and curry powder)を使う伝統的な家庭料理としてのカレー、もしくはそのインスタント製品(Vesta Curry)だったのである(Monroe 2004:152)。

 また、イギリスカレーのもう一つの伝統、森枝が無視したカレーペーストを使ったカレーは、現在もイギリスの家庭で作られている。ただしその「中身」は時代によって変化し続けている。

 1970~80年代のイギリスのカレーに何が起こったのか、カレー粉を使った家庭料理としてのカレーがなぜ廃れたのかについては、後の章で改めて言及する。

続きます