グラナダTV版「シャーロック・ホームズの冒険」の「海軍条約事件」における、奇妙な原作改変について
新刊『新しいカレーの歴史 上』〈日本渡来以前の諸国のカレー〉発売中です。よろしくお願いいたします。
新刊では海外の最新研究動向をふまえ、嘘・間違いだらけの日本のカレー史研究を全面的に刷新します。
新刊では第五章において、「シャーロック・ホームズに学ぶ19世紀末のカレー」と題し、「海軍条約文書事件」「白銀号事件」のカレーを分析しています。
今回は脇道にそれて、グラナダTV版の原作改変の理由について推理してみます。
グラナダTV版「シャーロック・ホームズの冒険」の「海軍条約事件」における、チキンカレーの朝食場面は、原作をちょっとだけ改変しています。
まず、ハドソン夫人の料理の出し方が改変されています。
原作では、ワトソンの前にハムエッグ、ホームズの前にチキンカレーの皿が置かれていました。
ところがグラナダTV版では、両方ともホームズの前に置かれているのです。
原作では、ホームズがワトソンに、ワトソンの前にある料理は何かとたずねます。ワトソンは蓋を取り、中にハムエッグがあることを確認し答えます。
ところがグラナダTV版では、ハムエッグの皿はホームズの前に置かれているので、ワトソンが確認するわけにはいきません。代わりにハドソン夫人が蓋を開けずに、中身の料理を説明します。
この変更はなぜ行われたのでしょうか?
そのヒントとなる場面があります。
ホームズはハドソン夫人に依頼し、取り返した盗難文書を皿に乗せ蓋をかぶせ、あたかも料理のように見せかけて依頼人の前に置きます。
蓋を開けたら盗難文書が出てきてビックリ!というサプライズを仕込んでいたのです。
ところが依頼人は食欲がなく、蓋を開けるつもりになりません。そこでホームズは
と依頼人にたずねます。
その際にホームズは、原作にはない行為をします。傷ついた左手を依頼人に見せて、「怪我をしているので皿を取ることができません、自分の代わりに蓋を開けてその皿を渡して(help)くださいますか?」と(言葉には出さずに)お願いするのです。
この「左手を怪我しているので皿を持つことができない」というのが、グラナダTV版に加えられた新しい設定です。
原作での怪我はそれほど大したものではなく、ホームズはチキンカレーの皿を依頼人に渡そうとしたり、ワトソンの前のハムエッグの皿を取り寄せて自分の取り皿にとりわけ食べています。
「左手を怪我しているので皿を持つことができない」という新たな設定により、「ワトソンの前のハムエッグの皿を自分でとる」という行動ができなくなり、それが一連の改変へとつながっていったのです。
さて、なぜこの新たな設定が追加されたのでしょうか?以下はあくまで私の推測です。
「海軍条約事件」の朝食の料理は、「フランス式配膳法」に従って配膳されています。
フランス式配膳法については前回の投稿、「5.ホームズはどうやってカレーを食べたのか?」を参照してください。
フランス式配膳法においては、自分の手前に料理がある場合、他人が取り皿に取りやすいように、料理の皿を相手に渡そうとするのがマナーでした。
これはホームズが依頼人のフェルプスに、カレーとハムエッグのどちらを食べるか訊く場面ですが、「What are you going to take, Mr. Phelps」というセリフは、マナーに従ってホームズが料理の皿を相手に渡そうとしているセリフなのです。
そしてその後、ホームズが依頼人の前の料理を食べたい、とお願いすると、依頼人は蓋を開けて料理の皿をホームズに渡そうとしたのです。それが当時のマナーなので。
ところが、中華料理のように複数人数分の料理を皿に盛るフランス式配膳法は廃れ、現在では一人前の料理を皿に盛るロシア式配膳法が主流となっています。
つまり、他人が取り皿に取りやすいように、料理の皿を相手に渡そうとするフランス式配膳法のマナーが忘れ去られてしまっているのです。
そのようなマナーを知らない視聴者は、ホームズが依頼人の前の料理を食べたいとお願いする画面を見て
「なぜ自分の手で料理の皿を取らないのか?」
と疑問に思うかもしれません。
そういった視聴者の理解を助けるために、
「ホームズは手を怪我しているので、自分で皿を取ることができないのだ」
という新しい設定を盛り込んだのではないでしょうか?(あくまで推測です)。