ぽん多はポークカツレツを発明していない
『なぜアジはフライでとんかつはカツか?』では、カツレツ、とんかつに関する様々な説を検証しています。
ポークカツレツに関しては、煉瓦亭発明説とは別にぽん多発明説というものも存在します。御徒町にある老舗西洋料理店「ぽん多」創業者の島田信二郎が、ウィンナーシュニッツェルからポークカツレツを発明したという説があるのです。
煉瓦亭発明説というのは、歴代の煉瓦亭主人がついてきた嘘ですが(「第一章 煉瓦亭という名のモンスター 」参照)、ぽん多発明説は二代目主人島田忠彦がこれを否定しています。
これは非常に重要なことですので、『なぜアジはフライでとんかつはカツか?』から、ぽん多発明説検証部分を無料公開します。
メモ:戦前の老舗とんかつ店の実際
ぽん多
もちろんこのぽん多カツレツ発明話は嘘である。カツレツはイギリス料理cutletが日本化し明治10年代の東京で普及したものだ。
当事者であるぽん多本家二代目島田忠彦も、この発明話を否定している。彼の父である島田信二郎がぽん多を創業した時点において、既にポークカツレツは存在していた。つまり島田信二郎はポークカツレツを発明していない。
島田忠彦によると創業者島田信二郎は明治21年生まれ。最初に修行を始めた店は九段の富士見軒であった(聞きたい放題19 洋食やのカツレツ 『食生活1977年9月号』)。
他の西洋料理店と同じく、富士見軒もまたポークカツレツを提供していた。
先に引用したが、明治18年の『東京流行細見記 一』に東京の代表的西洋料理店とそのメニュー一覧が掲載されており、店として「富士見」、メニューとして「かつれつ」が記載されている。
時事新報明治23年5月4日の記事「東京案内」には、“有名なる東京の西洋料理屋”として富士見軒の名が登場しており、“大抵の料理屋にある品”として“ポーク カトレツト(豚肉揚物)”が例示されている。
島田信二郎自身も、ウィンナーシュニッツェルからカツレツを考案したなどとは主張していない。
二代目島田忠彦によると、創業者はそれまで少ない油で揚げていたカツレツを、たっぷりの油で揚げる方式に変えたのだという。
つまり富士見軒等で学んだ当時のカツレツの揚げ方を工夫しただけで、何かを発明したなどとは主張していないのだ。
島田信二郎がウィンナーシュニッツェルからカツレツを発明したという話は、本人ではなく、関係のない第三者が捏造し広めた話なのである。
誰が捏造したかは不明だが、この捏造話を広めた一人が、毎日新聞記者の狩野近雄だ。
昭和38年の『東京うまい店二〇〇店』、昭和40年の『食いもの旅行』、昭和49年の『好食一代』において、狩野は繰り返し島田信二郎カツレツ発明話を広めている。
二代目島田忠彦が『食生活』のインタビューに答え、結果的に狩野の話を否定したのは、昭和52年のことであった。
つまり狩野は当事者に取材し裏を取ることなく、この捏造話を広めていたのだ。
というわけでぽん多のカツレツ発明話は嘘なのだが、他にもぽん多の経歴には大きな疑念がつきまとう。明治38年という、その創業年だ。
島田忠彦によると、父である信二郎は明治21年生まれ。さすがに父親の生年月日を間違えるはずはなかろうから、この話を本当の話だとすると、信二郎は明治38年、若干17歳の年に西洋料理店を開業したことになる。
現在でも17歳で西洋料理店開業というのはまずありえないが、戦前の厳しい徒弟制の下では、不可能といってもいい年齢での開業なのである。
(無料公開部分は以上です 続きは『なぜアジはフライでとんかつはカツか?』にて)
追記
『事物起源辞典』等に、ぽん多創業者島田信二郎がポンチ軒を創業したという記述があるが、これはガセネタ。島田忠彦によるとポンチ軒主人と島田信二郎は別人。
下のリンク『職業別電話名簿 第24版』P2236にある通り、ポンチ軒主人の名前は「飯島和七」。
https://dl.ndl.go.jp/pid/1142887/1/1111