明治末期から大正時代の来々軒の「らうめん」とは(下)
「明治末期から大正時代の来々軒の「らうめん」とは(上)」の続きです。
(この記事は2020年12月22日-25日にかけてのtwitter連載を編集したものです)
大正7年浅草に生まれた紙芝居作家、加太こうじによると、来々軒のラーメンは”本格的な味を思わせる”ものでした(『隅田川の歴史』)。
和風化した他店と比較すると、来々軒のらうめんは”本格的な味”だったということでしょう。
そんな和風化したラーメンを、明治時代から提供していた店に日本橋芳町(現人形町)の大勝軒があります。
明治31年10月31日生まれの版画家森義利は子供の頃、小遣いをためては大勝軒に通っていました。
”屋台ではない支那そばについていえば、芳町には「大勝軒」という味のいい中華料理屋が明治の頃からありました。「大勝軒」の開店は私が小学六年生の頃 です。”(『幻景の東京下町』 森義利)
日本橋芳町大勝軒の創業年は諸説あるのですが、森義利の記憶が正しければ明治43年となります。来々軒と同期です。
当時の大勝軒の支那そばは、豚骨スープではなく、脂っこくない和風のスープでした。
”ここで売る支那そばは、中国の本格なものに比較したら、味はずっと和風に近い。スープの出汁は豚の骨からとったものではなく、特別に工夫してあったと思います。脂っこくない点が、下町の人の好みに合ったんでしょう。芸者衆や半玉なんかも大勢くるようになって、繁昌しはじめたのです。”
このように和風化していた同期の大勝軒などと比較し、来々軒のらうめんは濃厚で脂っこかったために「本格的」と思われたのでしょう。
さて、本場の中華料理を食べていた人にとって、来々軒のらうめんの味はどのように感じられていたのでしょうか。
そんな人の証言を、私は一つだけ知っています。
明治30年代に、まだ日本人がほとんど訪れず、味も日本化していなかった横浜南京町(現中華街)に通っていた作家、獅子文六です。
”自分と同年輩の友人をつかまえて、君はシナ料理を何歳の時に食ったかと、訊いてみると、そうさね、浅草の来々軒でソバを食ったのが初めてだから、震災前何年ぐらいかな、というような返事が多い。”
”駄目駄目、そんなことでは問題にならないと、私は威張ってやる。僕はシナ料理を実に早く食った。”(『好食つれづれ草』 獅子文六)
横浜生まれの作家獅子文六は、まだ日本人があまり訪れなかった横浜南京町で料理を食べた経験がありました。
まだ日本人向けに味を変えていない、日本化していない本格的な中華料理を食べていた獅子文六。彼の来々軒に対する評価は次のようなものでした。
”たしか、その辺に、来々軒という中華料理があった。東京で、神田付近の外は、中華料理の少い頃だったが、やや日本的に調理したチャーシュー・メンの如きが、好評で、非常に繁昌してた。”(「ちんちん電車」 獅子文六 『獅子文六全集第十五巻』)
解釈に困る評価です。
チャーシュー麺はやや日本化していたそうですが、他のメニュー、らうめんとか焼売は日本化していなかった、とも解釈できます。
そのチャーシュー麺も、「やや」ということは極端には日本化していない、と受け取ることもできます。
また、チャーシュー麺の何が日本化していたのか。
チャーシューなのか、スープの味なのか、あるいは麺とスープの割合なのかがわかりません。
中華料理の麺料理は、日本のラーメンと比べて、スープの量が少ないように思えるのです。スープの量が多いのも、日本式ラーメンの特徴だと思います。
雲呑麺も、日本のラーメンに比べると汁が少ないのです。
中国共産党が約60年前に国家的事業としてまとめた中華料理レシピ集『中国名菜譜』。
広東の麺料理として唯一取り上げられていた雲呑麺の一人前の量は、麺49グラム、雲呑38グラム(いずれも茹でる前)、上湯150CC
日本のラーメンに比べると、全体量が少なく、麺(ワンタンも麺に合算)の量に対しスープの量が少ないのです。
来々軒のらうめんも、雲呑麺と同じように汁が少なかったのではないかと推測します。
植原路郎によると、明治末期の来々軒のラーメンは「山もり」だったそうです(『明治語録』)。
山盛りという言葉は、麺がスープに完全に浸かっている場合は使わないと思うのです。
山盛りということは、ラーメン二郎のようにスープから麺が飛び出し「山型」になっていたのではないでしょうか。
(wikipediaより)
明治末期の来々軒のらうめんは、本場広東と同じく、麺の量に対しスープの量が少なかったのではないかと思います。
というわけで、実際に食べた人の証言から私が想像する、明治末期から大正時代の来々軒の「らうめん」は、次のようなものです。
・トッピングなし
・濃厚豚骨醤油スープ、脂多め
・麺山盛り、スープ少なめ
さらに、来々軒のらうめんの味の秘密は、ある「調味料」にあったのではないかと想像しています。
その調味料については『お好み焼きの戦前史』の「メモ:来々軒のおいしさとは何か?」において言及します。