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新刊無料公開『新しいカレーの歴史 上』 “その6 イギリスのカレーと「ルー(roux)」
新刊『新しいカレーの歴史 上』〈日本渡来以前の諸国のカレー〉発売中です。よろしくお願いいたします。
新刊では海外の最新研究動向をふまえ、嘘・間違いだらけの日本のカレー史研究を全面的に刷新します。
『新しいカレーの歴史 上』冒頭部分無料公開 その6です。
その6 イギリスのカレーと「ルー(roux)」
(前回「その5」の後に、森枝卓士がイギリスの料理書をほとんど読まずにでっちあげたデタラメなイギリスカレー像と、主要な料理書から浮かび上がる本当のイギリスカレーについての説明が入りますが、この無料公開部分からは割愛しています。)
さて、『美味しんぼ』24巻にはもうひとり、カレー史を研究している実在の人物が登場する。辛島昇だ(P54)。
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辛島が『美味しんぼ』で披露しているのは、「カレー」という言葉の語源に関する新説である。正しいか正しくないかはともかく、この説に関してはカレー史の研究に大きく影響するものではない。
問題は、辛島昇が2009年に著した『インド・カレー紀行』のほうだ
“それともう一つ、イギリス人がつくりあげたのは、小麦粉をバターで炒めてつくる「ルー」である。インドでは、炒めたタマネギやトマトのペースト、粉にしたアーモンド、ココナッツのクリームなどによって、調理の過程で自然と出てくる「とろみ」を、材料が手に入りにくかったイギリスでは、小麦粉を使って出すようにしたのである。”(辛島 2009:5)
この認識は間違っている。19世紀のイギリスのカレーにおいて“小麦粉をバターで炒めてつくる「ルー」”を使うことは稀である。
今まで見てきたビクトリア朝を代表する2つの料理書、Isabella Beetonの『BEETON'S BOOK of HOUSEHOLD MANAGEMENT』、Eliza Actonの『MODERN COOKERY』、いずれにおいても“小麦粉をバターで炒めてつくる「ルー」”を使ったカレーレシピは存在しない。
そもそも小麦粉を使わないレシピも存在する。『BEETON'S BOOK of HOUSEHOLD MANAGEMENT』の9つのレシピのうち3つ、『MODERN COOKERY』の10のレシピ・手法のうち3つは小麦粉を使用していない。そして小麦粉を使う場合は、あらかじめバターで炒めたルー(roux)として使用することはない。
ビートン夫人のレシピの場合は、タマネギや肉等をバターで炒めた後に、水分(水やstock、broth、gravy)と同時か水分と前後して小麦粉を投入するケースが多い。水分に直接投入すると「ダマ」にならないかとおもわれるだろうが、当時の小麦粉は粒子が粗いのでダマにはならない。粒子が大きい小麦粉は、溶けるまで時間がかかるため、水分とほぼ同時に投入し時間をかけて煮溶かすのだ。当時の小麦粉の性質については後ほどあらためて説明する。
唯一小麦粉をバターで炒めているレシピが「CURRIED MUTTON (Cold Meat Cookery)」(Beeton 1861:336)だが、タマネギやマトンと一緒に炒めているため、“小麦粉をバターで炒めてつくる「ルー」”を使ったカレーレシピとはいえない。
ビートン夫人の本にはルー(roux)のレシピが2種類(「BROWN ROUX」、「WHITE ROUX」)掲載されている(Beeton 1861:250-251)。いずれもあらかじめ作り置きして容器に保存するもの(Pour it in a jar, and keep it for use)であり、カレー作りの途中で炒めて作るものではない。
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現在の日本語の「ルー」とは異なる点に注意
Eliza Actonの『MODERN COOKERY』においても、小麦粉は水分とほぼ同時あるいは前後に投入するか、肉などの素材にあらかじめまぶすかのいずれかである。やはり“小麦粉をバターで炒めてつくる「ルー」”は使わない。
念のため他の有名な料理書も調べてみる。
小麦粉を使うカレーレシピを掲載した初期の料理書、19世紀を通じて版数を重ねた1806年のMaria Eliza Rundell『A NEW SYSTEM OF DOMESTIC COOKERY』には4種類のカレーレシピが記載されているが、小麦粉は水分とほぼ同時あるいは前後に投入するか、肉などの素材にあらかじめまぶすかのいずれかであり、ルーは使わない。ちなみにレシピのうちのひとつ、「Another Curry, and more quickly made」においては、生肉だけでなく加熱した(dressed)肉を使っても良いとある。
カレー粉のレシピが掲載されている初期の料理書、19世紀を通じて版数を重ねた前出のWilliam Kitchiner『THE COOK'S ORACLE』(初版にはカレーレシピがないので1830年のNew York発行版)のカレーレシピ(No.497)は材料としてfowls(ニワトリ)、ウサギ、sweetbread、仔牛のbreast、仔牛のカツレツ、ラム、マトン、ポークチョップ、ロブスター、turbot(魚の一種)、シタビラメ、ウナギ、牡蠣を使用するが、ルーは使わない。小麦粉はカレー粉や塩とともに水と同時に投入し煮込む。ちなみに材料は全て新鮮な肉類と魚介類であり、残り肉は使用しない。
Michelle Berriedale-Johnson『The Victorian Cook Book』よると“2週間で第2版が発行され、その後も何年にもわたって大量に販売された”(Berriedale-Johnson 1989:37)というベストセラー、Alexis Soyerの『THE MODERN HOUSEWIFE』も参照してみる(1849年の初版ではなくProject Gutenbergの1850年版を参照)。
21種類のカレーレシピ(レシピ番号151、517-536)のうち、小麦粉を使用しているのは半分以下の8レシピ、その全てにおいてルーは使用しておらず、水分と同時か前後して投入されて煮込まれている。
ちなみに残り肉を使用しているのはNo.525 「Calf's Head Curry」のみ。他のレシピは新鮮な肉や魚介類を使用している。
というわけで19世紀を代表する5冊の料理書における小麦粉の使い方は次のようなものだ。
・そもそも小麦粉を使うとは限らない。『THE MODERN HOUSEWIFE』においては21種類のカレーレシピのうち小麦粉を使うのは8種類のみ。
・小麦粉を使う場合は水分(水やstock、broth、gravy)とほぼ同時に投入するか、材料にあらかじめまぶす。
・小麦粉をバターで炒めたルーは使用しない。
筆者は19世紀イギリスにおける四百数十冊の料理書をクラウドにアップロードし、キーワードで全冊同時に全文検索できる環境を作っている。
「"curry" "roux"」「"curried" "roux"」等のキーワードで検索すると、稀にではあるがルーを使ったカレーレシピもヒットする。そんな料理書のうち、有名な著者が書いた料理書が、ビクトリア女王のシェフをつとめたCharles Elme Francatelliの『THE MODERN COOK』。
その中のカレーソースレシピ47.「INDIAN CURRY SAUCE」(インド風カレーソース)(Francatelli 1846:12)において、rouxもしくは小麦粉を使うと記述されている。
一方、別のカレーソースレシピ87. 「PLAIN CURRIE SAUCE」(プレーンなカレーソース)(Francatelli 1846:19)においてはルーを使わない。また、Francatelliが中流家庭向けに書いた別の料理書、『THE COOK'S GUIDE AND HOUSEKEEPER'S & BUTLER'S ASSISTANT』の各カレーレシピにおいてもルーは使わない。
というわけで“イギリス人がつくりあげたのは、小麦粉をバターで炒めてつくる「ルー」である”という辛島の主張は、一般的な19世紀のイギリスカレーレシピにはあてはまらないのだが、問題は(あきらかにイギリスの料理書を読んでいない)辛島がこの嘘情報をどこから持ってきたのかということだ。
続きます