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無料公開『牛丼の戦前史』第一章「ミスター牛丼、窮地に立たされる」その4「松田瑞穂の嘘」
『牛丼の戦前史』の第一章「ミスター牛丼、窮地に立たされる」を無料公開いたします。
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それでは『牛丼の戦前史』の第一章「ミスター牛丼、窮地に立たされる」をお楽しみください。
4.松田瑞穂の嘘
『吉野家の経済学』において、吉野家は昔から牛丼だけを専門にしていたかと問われた安部は、次のように答えている。
”いえ。最初は天ぷらなんかも出していたようです。だから、牛丼単品専門店じゃなかったんですよ。”
つまり、吉野家のかつてのキャッチフレーズ「牛丼ひとすじ、八十年」の「牛丼ひとすじ」は松田瑞穂がついた嘘で、実際には牛丼以外のメニューもあったというのだ。
『吉野家の経済学』には、次のような発言もある
”屋台にちょっと毛の生えた程度の建物が、魚河岸の船着き場に沿って並んでいるという感じだったでしょうね。いまでいうと博多の川端の屋台、まああれはずいぶん「店」然としてますが、ああいう風情ですね。”
日本橋魚河岸、そして関東大震災後に移転後の吉野家の店舗に関する話である。博多の屋台よりもみすぼらしい、”屋台にちょっと毛の生えた程度”の店だったと安部は言う。
先程述べたとおり、吉野家豊洲市場店には日本橋魚河岸時代の吉野家の姿が、レリーフになって飾られている。このレリーフに描かれた二階建ての大きな木造店舗は松田瑞穂のついた嘘で、実際には屋台に毛が生えた程度の店であったと、安部は主張するのである。
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関東大震災前の日本橋魚河岸については次の本が詳しい。いずれの本にも、小さな店一軒一軒まで細かく書き留めた市場地図が載っている。
魚河岸百年編纂委員会編『魚河岸百年』
尾村幸三郎『日本橋魚河岸物語』
レリーフが正しいならば、吉野家は日本橋川沿いの、納屋裏通りと納屋前通りの間に二階建ての大きな店舗を構えているはずだ。
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ところが、いずれの本の地図にも、そのようなものは存在しない。安部の言うように、あのレリーフは嘘なのだ。
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納屋裏通りと納屋前通りだけでなく、地図全体を見ても吉野家の名前はない。両書に収められている関係者の思い出話の中にも、吉野家は登場しない。
実際のところ、明治32年に日本橋魚河岸に創業したというのは、松田瑞穂がそう主張しているだけであって、客観的な証拠や第三者の証言は見出すことができなかった。つまり、レリーフに描かれた大店舗どころか、吉野家が本当に日本橋魚河岸に存在したかどうかさえ、疑わしいのだ。この問題については後ほどあらためて取り上げる。
(吉野家の歴史の検証については『牛丼の戦前史』「メモ:吉野家が日本橋魚河岸で創業したというのは本当か?」参照)
安部の証言にはないが、セミナー講習でチェーン化を思いついたという松田瑞穂の話も嘘だ。
松田瑞穂がチェーン化を思いついたと主張する昭和40年時点において、すでに牛丼チェーン店は存在した。しかも、その本店は築地の吉野家から歩いて二十数分の目と鼻の先、新橋に存在したのである。
この日本初の牛丼チェーン店の名を、なんどき屋という。創業は昭和35年。松田瑞穂がチェーン化を思いついたという昭和40年時点で既に、新橋を中心に8店舗を展開していた。
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次の記事 5.なんどき屋の模倣からはじまった吉野家のチェーン化