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無料公開『牛丼の戦前史』第一章「ミスター牛丼、窮地に立たされる」その2「年商1億円を目指せ」
『牛丼の戦前史』の第一章「ミスター牛丼、窮地に立たされる」を無料公開いたします。
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それでは『牛丼の戦前史』の第一章「ミスター牛丼、窮地に立たされる」をお楽しみください。
2.年商1億円を目指せ
安部修仁は、自身がミスター牛丼とよばれることに同意していない。
安部にいわせれば、ミスター牛丼の名に値するのは、幼い頃に実父を亡くした彼が今も「オヤジ」とよび私淑する故・松田瑞穂をのぞいて他にいないということだ。
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松田瑞穂は築地で吉野家を経営していた創業者、松田栄吉の次男として生まれた。
松田瑞穂の息子松田一郎によると、父瑞穂はもともと、吉野家を継ぐつもりはなかったという。
”そもそも牛丼屋から逃げ出したいと考えていた人でした。苦労して大学の法科に行ったのも弁護士などインテリの道を歩みたかったから。でも、終戦直後にそんな余裕はなかった。祖父は既に歳をとっていたし、家族を食わせなければならないと、いやいや店を継いだわけです”
松田瑞穂は戦争からの復員後名門中央大学法学部に進学、家業の牛丼屋以外の道を目指していた。ところが長男である兄の戦死の報が入り、一家の大黒柱となるために家業を継ぐ決心をしたのだという。
描いていた将来設計をあきらめて、生活のために家業を継がざるをえなかった松田瑞穂。ミュージシャンを目指したが、生活のためにアルバイトで入った吉野家の事業を任された安部修仁。
吉野家は「夢破れた二人」によって、築地の小さな一店舗からここまで大きくなったのである。
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だが、松田瑞穂は単なる牛丼屋に終わるつもりはなかった。戦災のため店舗を焼失し、屋台で営業していた吉野家を昭和22年に再び店舗化。8.9坪、わずか20席しかないこの小さな店舗を、年商1億円の店に育て上げることを決意したのである。
吉野家は店舗再建から18年後の昭和40年に売上1億円を達成するが、18年という年月が語るとおり、その道のりは容易なものではなかった。
年商1億円を達成してから4年後の『月刊食堂 昭和44年10月号』に「牛どんで労働生産性50万、驚異の吉野家」という記事が載っている。記事における牛丼(並)の値段は200円。200円の牛丼で年商1億円である。
ちなみにこの時期の吉野家は、安さを売りにはしていなかった。
昭和44年当時の大卒初任給は3万4100円。現在の約6分の1強。立ち食いそばチェーンではない普通の蕎麦屋のかけそばの値段が70-100円。これも現在の約5から6分の1。
つまり、当時の牛丼並200円という値段は、現在でいうとその5,6倍、1000円超の値段に相当するのだ。
値段が高かったのも当然の事で、実はこの時期の吉野家、近江牛を使っていたのである。
”近江牛のバラ肉を使っているが、市場にあればあるだけ買うようにしている。東京都内の近江牛のバラ肉は、八〇%をウチが押えている。”
とはいえ、物価が今の5,6分の1であったということは、年商1億円も現在に換算すると5,6億円になるということだ。これを小さな牛丼店で達成しようとするのは正気の沙汰ではない。
年間1億円売り上げるためには、200円の牛丼を50万杯販売する必要がある。築地市場の営業日が300日として1日1666杯。20席の店が、朝5時の開店から閉店する13時までの8時間に80回転以上しなければ、この売上は達成できない。
つまり1時間に10回転以上、一人平均滞在時間6分以下で絶え間なく席が満杯になることが、年商1億達成の条件なのである。
客が牛丼を食べる時間はコントロールできない。滞在時間を極力短くするためには、客が店に入ってから牛丼を出すまでの時間を極力短くするしか方法がない。
”だから、客一人一人のオーダーを全部覚えておいて、オーダーを聞かないでも、その人が店に入ってきたら作りはじめるという習慣を作ったんですね。”
後に社員研修として築地店に入った安部修仁は、常連客の顔と、彼らが何をオーダーするかをすべて記憶させられる羽目になる。しかも吉野家築地店は「とろだく(脂身の多い肉を多めにする)」「ねぎだく(玉ねぎを多めにする)」「ねぎぬき(玉ねぎなしの肉だけ)」などの、他店にはない特殊注文が通用する店だ。
もちろんその裏では、一日千数百杯の牛丼を絶え間なく供給するための厨房の仕組みも必要になる。作業効率化の鬼となった松田瑞穂がこのとき築き上げた仕組みは、チェーン化の過程で生かされることになるのである。
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