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無料公開『牛丼の戦前史』第一章「ミスター牛丼、窮地に立たされる」その8「牛鍋丼というニセ神話 その1」

『牛丼の戦前史』の第一章「ミスター牛丼、窮地に立たされる」を無料公開いたします。

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それでは『牛丼の戦前史』第一章「ミスター牛丼、窮地に立たされる」をお楽しみください。


8.牛鍋丼というニセ神話 その1


2010年9月2日、東京・赤羽にある吉野家本社において、社長に復帰した安部修仁自らがプレゼンの舞台に立ち、新製品の発表が行われた。

新製品である「牛鍋丼」の値段は280円。安値競争をしていたすき家と松屋の牛丼と同価格帯であった。吉野家本来の牛丼の値段は変えずに、新商品で安値競争に参入したのである。


牛鍋丼

発表会に出席した日経トレンディネット記者の牛鍋丼の印象は、次のようなものであった。

”まず運ばれて来たときの印象は、「ちょっと小さい気がする」。直径が牛丼より3ミリ短い専用のどんぶりを使っているという。見た目は牛丼に似ているが、よく見ると豆腐としらたきが目に付く(特にしらたきが幅を利かせている)。牛肉の量は52gと牛丼(67g)より少なく、ごはんも230gと牛丼(260g)より少ない。”
”「牛肉の代わりにしらたきを食べている」と思うと悲しくなるが、「これこそ牛丼の原点!」と、その歴史を噛みしめるのもよい。”

「新メニュー「牛鍋丼」に託した吉野家の“280円戦略”」 日経トレンディネット

安部社長によると、牛鍋丼に使われているのは牛丼と同じアメリカ産牛肉ではあるが、牛丼用とは別の部位の安い肉を使っているということであった。

安い牛肉を使い、肉とごはんの量を減らし、減った分を豆腐としらたきで水増しする。

誰の目から見ても、廉価版の牛丼にしか見えない新製品が牛鍋丼であった。

ところが安部社長によると、牛鍋丼は廉価版の牛丼ではなく、あくまで吉野家の原点に立ち戻った商品なのだという。

翌日から大規模に展開された牛鍋丼の広告には、次のような文言が躍っていた。

”明治三十二年。そのころ、東京の魚河岸は現在の日本橋室町にありました。(中略)吉野家の創業者である松田栄吉が着目したのが、牛鍋でした。”
 
”栄養豊富な牛肉を、豆腐や野菜と一緒に煮込んで食べる。それをご飯にかけて、丼でいただく。当時は「牛鍋ぶっかけ」とも呼ばれていたこの料理はしっかり栄養が取れて、しかも手軽に、短い時間で食事ができる。”
 
”そこでこのたび、いわば私たちの牛丼の起源だったともいえる、牛鍋のうまさをそのまま丼にこめた「牛鍋丼」を、新たにメニューに加えさせていただくことにいたしました。”

2010年の吉野家牛鍋丼広告

つまり、牛鍋丼は廉価版の牛丼ではなく、創業者にして松田瑞穂の父、松田栄吉が創業時に生み出した吉野家原点の味だというのだ。

ここで強調しておくが、松田瑞穂は父である松田栄吉が牛鍋から牛丼を生み出したなどという話をしたことがなかったし、安部修仁もそのような起源話をしたことがなかった。この牛鍋丼誕生神話は、牛鍋丼の発表時に唐突に飛び出た、誰も聞いたことがない話なのである。

新聞広告には安部社長が嘘であると証言している、あの2階建て店舗のレリーフ画像が添えられていた。

レリーフの2階建て店舗が、実際には存在しない作られたニセの神話であったように、松田栄吉が牛鍋をごはんにかけて牛丼を生みだしたという神話も、牛鍋丼の安っぽさを粉飾するために作られたニセの神話である。


牛丼はもともと牛鍋をごはんにぶっかけたものではない。そう言って、牛鍋丼神話を真っ向から否定する男がいる。

嘘をつかない男、ミスター牛丼安部修仁本人である。

牛鍋丼発売の8年前、2002年に発行された『吉野家の経済学』において安部修仁は、牛鍋と牛丼は全く異なる食べ物であったと証言していた。

”牛鍋のほうが先行してます。すでに明治の初期に、牛鍋では有名なチェーンで「いろは」というのがありました。(中略)牛鍋屋というのは結構プレステージの高い、高級なものでしたから。”

”(牛丼は)もっと庶民的な「ぶっかけ飯」ですね。当時は「牛めし」と呼ばれていたようですが。牛の内臓をゆがいた煮汁に、牛のコマ切れ肉を入れて煮込んで、ご飯にかけた。”

安部修仁 伊藤元重『吉野家の経済学』 

牛鍋はロースなどの正肉を使った高級料理、牛丼は内臓肉を使った庶民向けぶっかけ飯。全く別物であると安部修仁は主張するのだ。

ちなみに「牛の内臓をゆがいた煮汁に、牛のコマ切れ肉を入れて煮込んで」というのは『日本食肉文化史』(伊藤記念財団)の資料誤読部分を引用したもの。

オリジナルの資料では「牛の内臓を湯がいて、それを牛めし獨特の煮汁でコトコト終日或は數日トロ火で煮たものに葱のコマ切れを入れ」となっている。これについては第三章で、原資料を引用しながらあらためて解説する。

安部は松田栄吉と吉野家がその例外であるとは主張していなかった。吉野家のそれを含め、牛丼とはそもそも牛鍋をごはんにぶっかけたものではない。牛丼の起源は、内臓肉の「煮込み」をごはんにかけたものだったのだ。

また現在(2019年)の吉野家も、松田栄吉が牛鍋から牛丼を生み出したという牛鍋丼神話を否定している。この点については後述する。

『戦国外食産業人物列伝』には、昭和10年頃の松田栄吉の牛丼を食べた経験のある、築地の卸問屋「樽吉」主人の証言が載っている。

”私が小僧の頃からやってましたね。この市場が今のようになったのが昭和十年前後で、その頃には、すでに牛丼屋として繁盛してましたから”

”先代のジイさん(栄吉)は、ニコニコした愛想のいい人で、いつも白い上着にホオ歯の高ゲタをはいて、ナベの前に立っていました。昭和十年頃の牛丼は一杯一五銭ぐらい。ちょうど銭湯と同じぐらいの金額だったと思います。具の味も今とはまったく違ってまして、コッテリとした味わいがありました。材料そのものが今とは違ってたんじゃないでしょうか”

佐野眞一『戦国外食産業人物列伝』

本の出版は1980年。その頃の吉野家はチェーン店化しアメリカ産牛肉を使っていた。そのアメリカ産牛肉を使った牛丼とは「具の味も今とはまったく違ってまして、コッテリとした味わいがありました。材料そのものが今とは違ってた」というのが昭和10年頃の吉野家の牛丼、創業者松田栄吉の牛丼であった。

毎日はいる銭湯と同じ15銭という庶民的値段では、牛鍋に入っているような高価なロースなどの正肉をつかうことはできない。

松田栄吉はどのような肉を牛丼に使っていたのか。同じ昭和10年頃、同じ15銭の牛丼を愛食していた子供がいた。後に作家となる池波正太郎である。

”広小路にあったカフェーの〔ナナ〕の、鸚鵡の電気看板がつるされた、その前あたりに〔牛めし〕の屋台が出ている。”

”この店の〔牛めし〕は、当時の浅草の、どの店でも十銭だったそれを十五銭とる。それだけに味が全くちがっていた。ここは叔父が教えてくれたもので、以来、病みつきとなって通いつめたのである。私は十歳であった”

池波正太郎『青春わすれもの』 

大正12年生まれの池波正太郎が10歳のときだから、昭和8年。当時の吉野家と同じ値段ではあるが、浅草ではやや高めの値段の15銭で牛丼を売る屋台に、正太郎少年は通っていた。

”池波 「牛肉が食いたい時は浅草に行って屋台で牛丼食うんですよ。牛飯ね。それが、〔ナナ〕という広小路のカフェーの前に出ている牛飯屋がありました。ほかが十銭の時十五銭だった。評判の店でね、エノケンなんかもよく一緒に食ってましたけどね。まあ、うまいんだねぇ。」”
”荻 「やっぱりスジを使っているわけでしょう?」”
”池波 「つかってる。」”
”荻 「ニョロニョロのやつですね。」”

『完本池波正太郎大成 別巻』における荻昌弘との対談

正太郎少年贔屓の牛丼は、すじ肉を使っていた。のちに述べるように、さらに安い牛丼屋ではすじ肉より安い内臓肉を使用していたが、値段が高い部類に入る15銭の牛丼ですら、正肉は使わずにすじ肉を使っていたのだ。

この池波正太郎や喜劇役者エノケンこと榎本健一、詩人サトウ・ハチローが通っていた名物屋台の名は田中屋といい、昭和14年に発表された浅草を舞台とする小説『如何なる星の下に』にも登場する。

”小屋の連中がひいきにしている「田中屋」という牛めし屋の暖簾をくぐって、ドサ貫がマスクを取ったのを見て、私はこれはと驚いた。”

”へい、お待ちどおさまと、玉葱に肉がチラホラ混っている牛めしが前に置かれた。”

高見順『如何なる星の下に』

田中屋の牛丼は”玉葱に肉がチラホラ混っている”、つまり肉の量が少なく玉ねぎが主体の牛丼であった。しかもその肉はすじ肉であった。

同じ頃同じ15銭という値段で売っていた築地吉野家の牛丼が、高価な正肉を使った「牛鍋ぶっかけ丼」であったはずはない。安部修仁がかつて言っていたように、内臓肉かすじ肉を使った牛丼であったのだろう。

池波正太郎や高見順だけではない。この本ではこれから200近い数の戦前の牛丼に関する証言を扱っていくが、牛丼が牛鍋から生まれたと主張する戦前生まれの人は一人としていない。内臓肉やすじ肉の煮込みをぶっかけた丼ものが、牛鍋から生まれたはずはないのである。

明治時代末には正肉を使った牛丼も登場するようになるが、正肉を使う牛丼が主流となったのは、戦後のことである。


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