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無料公開『牛丼の戦前史』第一章「ミスター牛丼、窮地に立たされる」その7「ミスター牛丼、窮地に立たされる」
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それでは『牛丼の戦前史』の第一章「ミスター牛丼、窮地に立たされる」をお楽しみください。
7.ミスター牛丼、窮地に立たされる
牛丼ひとすじ八十年も嘘、レリーフに描かれた大店舗も嘘、セミナーからチェーン店化を思いついたというのも嘘。
こうして松田瑞穂の過去の発言を検証すると、嘘ばかりついているように思えるが、外食産業や食品工業においてはこの手の法螺話は日常茶飯事の話であって、松田瑞穂が特別というわけではないのだ。
老舗あるいは一流企業の自慢話、特に発明話や元祖話、伝統自慢は、嘘であるという前提で疑えというのが、食文化史研究の鉄則である。
逆に言うと、業界慣れした目からは、安部修仁のような正直者で虚勢を張らない経営者のほうが新鮮に映るのであって、そこらへんが業界記者から自然と「ミスター」の称号が贈られることになった理由の一つであろう。
ところが、その嘘をつかないことで有名な安部修仁が、世間に向かって、社員に向かって、盛大に嘘をついたことがある。
それは、窮地に追い込まれての、やむにやまれぬ嘘だったのである
安部修仁はその経営者人生の中で、何度か大きな危機を乗り越えてきた。
一度目の危機は、昭和55年の吉野家経営破綻である。その時は経営者ではなかったが、プロパー社員の中心として再建を担い、やがて社長を託されるまでになった。
二度目の危機は、2003年にアメリカでBSE(牛海綿状脳症)が発生、23ヶ月にわたって牛丼の命ともいえるアメリカ産牛肉の輸入がストップしたことである。
このときの吉野家の対応と、ライバルチェーン、すき家と松屋の対応は異なるものであった。
アメリカ産牛肉を使用していた三社は、ともに当初は豚丼などの代替メニューでしのいでいた。だが、しばらくするとすき家と松屋はオーストラリア産などのアメリカ産以外の牛肉で牛丼を復活させたのである。
吉野家だけは、アメリカからの牛肉輸入が復活するまで、頑なに牛丼を出そうとはしなかった。それは、伝統の味に強いこだわりがあったからだ、と安部修仁は主張する。
吉野家ではアメリカでのBSE発生の2年前から、このような不測の事態を予測して、調達先をオーストラリアなどの他国に広げ多角化ができないか否かの検討プロジェクトが立ち上がっていた。この点、輸入禁止が決まってから泥縄的に他国からの輸入を検討し始めたすき家とは異なる(これがゼンショー流の成り上がり術だ 『東洋経済オンライン 平成26年11月29日』)。
”オーストラリアはもちろん、ブラジル、アルゼンチンなどの牛肉生産大国である中南米諸国。しかし、そのなかで質的に耐えられるものをかき集めても、100店舗を維持するのが精一杯だということがわかりました。全店規模で「吉野家の牛丼」が求める均質な肉を継続的に調達するのは不可能だったのです。”
他国産の肉で吉野家伝統の味を維持できるのは、100店舗が限界。全店で以前と同じ味を提供できないならば、いっそ牛丼を出さないほうがいいというのが安部修仁の決断であった。
一方、チェーン店の数が少なく、吉野家ほど旧来の味にこだわりのないすき家と松屋は、躊躇なくオーストラリア産などの牛肉にシフトできたわけだ。
こういうとすき家と松屋は味にこだわりがないような印象を受けるかもしれないが、事実はというとむしろ、安部修仁が吉野家の伝統の味にこだわりすぎていた、という表現のほうが正しいだろう。
そもそも松田瑞穂には、アメリカ産牛肉に対し安部ほどのこだわりはなかった。
吉野家はもとはというと、近江牛を使った高級牛丼を出していた店である。チェーン店化にあたり、伝統の味を捨ててアメリカ産牛肉を使う決断をしたのが、松田瑞穂であった。
そのアメリカ産牛肉も、当時は輸入数量に制限がかかっており、吉野家が規模を拡大するにつれ奪い合いになり価格は高騰していった。そこで松田瑞穂は、海外でフリーズドライ肉に加工してから輸入するようになった。加工肉は輸入制限の対象外だったからだ。
”オヤジだったら、牛丼を出し続けてたろうな”
そんな松田瑞穂であれば、オーストラリア産の牛肉に乗り換えることに躊躇しなかったはずだと、安部は考えている。
経営破綻の前に、フリーズドライの牛肉を使用するようになった吉野家。当然、生肉と比べて味は落ちる。安部修仁は、吉野家破綻の大きな要因の一つは、味の劣化による客離れであったと分析している。
その後再建にあたって安部修仁は、「はやい、やすい」よりも「うまい」に重点を置き、客を呼び戻すことに成功した。この成功体験が、他社より厳しい味へのこだわりを生んだといえるだろう。
また、安部修仁が創業者一族でも大株主でもなかったが故に、昔の味にこだわらざるをえなかったという事情もあったのだろう。
安部は松田瑞穂を神格化する傾向が強い。牛丼の味についても同様である。それは本心から松田瑞穂と吉野家の牛丼の味に敬意を抱いているからではあるだろう。
だが、いってみれば「雇われ社長」でしかない安部にとって、松田瑞穂と彼が作った牛丼の味という神話を守ることは、会社にフィロソフィーを与え、求心力を保つ最後の砦でもあったのである。
そしてこの安部の吉野家神話への執着が、第三にして最大の危機、現在も続く吉野家の危機の引き金となってしまうのである。
2006年9月、吉野家はアメリカ産牛肉の輸入再開をうけて牛丼を復活させる。だが、輸入再開といっても、月齢20ヶ月以下の若い牛のみという制限がかけられていた。その関係で、アメリカ産牛肉はオーストラリア産などの他国産牛肉より割高になってしまったのである。
吉野家がBSE問題にとらわれているうちに、すき家は出店攻勢を加速し、2008年9月には吉野家を追い抜き、さらに数を増やしていった。
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そして2009年、すき家と松屋の間に牛丼値下げ競争が起こった。
もとはといえば、牛丼値下げ競争は吉野家が2001年にはじめたものだ。当時400円だった牛丼を、250円で売り始めたのがその発端。以来、BSE騒動まで安値戦争を仕掛けていた主体は、業界トップの吉野家であった。
ところが、2009年の値下げ競争はその構図がまったく異なっていた。
吉野家はすき家に店舗数で抜かれ、プライスリーダーの地位を失っていた。
かつて主要三社は全てアメリカ産牛肉を使っていたが、いまや割高なアメリカ産牛肉を使っているのは吉野家だけ。
オーストラリア産など割安な牛肉を使うすき家と松屋の値下げ競争に、吉野家は加わることはできなかった。価格を下げると赤字になってしまうほど、アメリカ産牛肉は高かったからだ。
吉野家の客は他社に奪われ、業績は低迷。この事態を打開するために、会長職に就いていた安部は社長を更迭し再び社長職に復帰、直接指揮をとることとなった。
社長を更迭するという冷徹な人事について、後に安部は次のように語っている。
”他社に追随しようという動きが顕著に見られたんです。例えば、商品やらスタイルやらですね。他社がそれで成功しているように見えたのでしょう。「ならばうちでも増やしてみよう」となったんです。本人たちは「追随なんかじゃない」と思っているかもしれないけれど、僕から見ると、それは猿まね。思考停止、筋肉硬直でしかないわけです。”
”「他と同じことをやったってしょうがねえんだ」と。これらの言葉(引用者注 松田瑞穂の言葉)は、僕の頭にこびりついていますね。だから、猿まねをしようという姿勢に、オリジナリティが失われる、という強い懸念を持ちました。”
なんどき屋のまねをして吉野家をチェーン店化した松田瑞穂が、「他社のまねをするな」と言っていたというのは笑い話にしても出来が悪いが、ともかくも松田瑞穂が築き上げた吉野家を神格化していた安部修仁にとってみれば、他社のまねをするのは吉野家神話を崩壊させる許されざることであった。それが、安部にしては例外的な、社長降格という冷徹な人事の理由であった。
その一方で、値下げのために牛丼の肉をアメリカ産以外の肉にすることも、絶対にできなかった。安部にとっては松田瑞穂が作った牛丼の味もまた、神聖にして不可侵のものだったからだ。
他社の模倣をせず、牛丼の味と値段を変えずに、吉野家の業績を復活させる。
この対処不可能とも思える状況を打破するため、社長に復帰した安部は大胆な決断をする。
ニセの吉野家神話を創造し、そのニセのストーリーを背景に、廉価版の牛丼を安く売る。
そのニセの神話を背負わされた廉価版の牛丼は、牛鍋丼と名付けられた。
次の記事 その8「牛鍋丼というニセ神話 その1」