人はなぜ本を読むのか
僕は本が「そこそこ」好きだ。
思春期の朝読書は必ず家の本棚から掻っ払って小説を読んでいたし、その本に熱中しすぎて先生方に怒られた記憶もある。でも殊更スマホを手に入れてからだろうか、読む習慣が飛んで行った。それも鮮やかに。
そこでふと思う。
なぜ、人は「本」を読むのだろうか。
さかのぼれば情報伝達媒体は紙と筆から始まり、その集大成といえる書籍が僕たちの生活に深く浸透しているのも不思議ではない。
またインターネットやスマートフォンの登場により、感覚としての本離れという意見があるのは理解できるが、あくまでその情報を披露する舞台がデジタルの世界に引越ししただけにすぎないと思う。
では、なぜ僕は本を読むのか。
冒頭にもある通り、僕は本が「そこそこ」好きである。
読み始めれば結構熱中するほうだと思うし、セリフや振る舞いなどかなり影響を受けるほうでもある。でもそれだけの魅力を本が有していると知っておきながら、ここ数年は手が伸びていない。
つまり「本」を読みたくて読んでいる、という状況とは少し違う気がするのだ。
とすると僕にとっての本は、いったい何者なんだろうか。
思い返すと、何か逃げ場・光明を探しているときに僕は本を読んでいる。
好きな人の趣味が本だった時、仕事がつらくて転職を考えたとき、自己否定に走りすぎて誰でもいいから肯定が欲しいとき、とにかく無為に過ぎる時間に意味をつけたいときなど。
つまり僕にとっての「本」は救世主でありつつも、暇つぶしに落ち着いている。なので改めて思う。人はなぜ、あれほど本を読むのだろうか。
本には生きた言葉が躍っている。そして、おそらく自分の人生では得られないような体験・心の動きが微細に表現されている。
そして読んだ僕たちは追体験する興奮と未知の感情に対する言語化を獲得することで、この上ない満足感に襲われる。
だから、本は絶えず僕たちを躍らせるのだろう、と思う。
一度本好きの人に言われたことが脳裏に焼き付いて離れない。
「本は何かのために読むのじゃない、読みたいから読むのだ。」
僕は、「本を読んでいる自分」という概念が好きだ。もちろん他人の本を読んでいる姿も好きである。だから、いつか本を狂ったように読む自分が見つかったら、この上ない喜びを見出せるだろう。
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