希死念慮を飼いならす
大層重たいテーマのタイトルだが、安心してほしいのは筆者が現時点で自死等を検討しているわけではない。ただ漠然と自身の心に居座り続ける、世間がいうところの「よろしくない」思想をこの場で整理したいだけなのである。
色々書き連ねる前に、まず「希死念慮」という言葉の定義を確認しておこう。
このように、今回ひも解いていきたいのは「散発的に自殺に対する思考あるいは観念が出現する」状態のことである。
自分に希死念慮があると薄々自覚したのは、高校1年生にさかのぼる。その年、私は初めて生まれた市から飛び出して、たかが隣の市ごときで大げさに聞こえるが、地元というコミュニティアドバンテージのない異文化に飛び込んだのである。それまで自分はおちゃらけ盛り上げ役だと認識していたが、初手のコミュニケーションで笑いのツボやノリが違うことをつかみ切れず、部活動等も入っていなかったために孤立するのは早かった。
想像してみてほしい。友達がいない高校生の孤独が何を意味するか。ほぼ社会的な死と同義といっても差し支えない。というか当時の自分にはそう感じるほかなかった。あらゆる人間関係の輪から外れたことを認知したときにはすでに手遅れであった。そして悪いことは続くようで、このとき自分のメンタルがいかに脆弱であるかを認識させられるのであった。
この時初めて、人生の選択肢に「死」の項目が誕生したように思える。いやはや、今こうやって考えてみるとなんと大袈裟なことか。しかしながら当時のうら若き純朴すぎる少年には、人生の終焉を視野に入れるほどの痛打だったのだ。
その先も、失恋や他人との比較、就活の失敗などといったうまくいかない出来事のとき、「死」の選択肢は顔をのぞかせてくる。そしてこれが「希死念慮」であるということを、新社会人になったころだろうにようやく気付いた。そして、いよいよ「希死念慮」を飼いならさないと、本格的に自死を選びかねないぞという危機感を覚えた記憶がある。
「希死念慮」の厄介なところはそこである。一歩間違えれば、本当に人生を終わらせる一手を打ちかねない。読者の皆様は大方人間であると思うので、感情の浮き沈みを経験したことがあるだろう。沈んでるときに「希死念慮」は強くなるもので、さらに悪いことにそういう時には理性的な判断が出来ないのである。それゆえに、生き続けるためには「希死念慮」をうまく手懐けなければならないのだ。
現状、これに対する自分の解答は残念ながら見つかっていない。理論的に考えれば、感情の起伏をなくすべきというあたりに落ち着くのだろうが、さすがに無理のある話だ。となるとやはり感情が落ちた際の対処法を、自分なりに見つけ出しておかなければならないのだろう。
正直、これだけつらつらと書きながらいまいち「死」というものを実感できないでいる。いや体験できないのだから、むしろ当然なのだろうか。ただ、突発的な自死は誰かしらに迷惑をかける。それは私の哲学に反する。故にせめて、自分の去り際というものを自分で準備できるまでは「希死念慮」とうまく付き合っていきたいものだ。
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