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「ある」「おる」「いる」

生まれ育った関西の、それも田舎町では「ある」と言った。「たくさん人がある」「学校に犬があった」というふうに。もし、ずっとその町に住んでいたなら、今もそう言っているかもしれない。

「ある」じゃなく「いる」と東京では言うのだと気づいたのは中学生のころだったかもしれない。関西は「おる」がふつうだとテレビのお笑い番組で知った。

「ある」って口から出て、変な顔をされたり、田舎者かと思われたくない。たまに大阪に出かける時は、関西風の「おる」に変えた。

東京に出てくると、「いる」派が常識だった。関西出身の人は、「おる」派を押し通す人も「おった」けれど、「いる」派に宗旨替えする人も多かった。わたしも、転向した。

もともとが「ある」派だから、「おる」をつかうのもぎこちない。ましてや、「いる」はハードルが高かった。「いる」なのか「ある」なのか、どっちだと考え、会話がワンテンポ遅れる。ついでにイントネーションの音階変更をしようとしたから、おしゃべりするのに気をつかった。

「私には恋人があるの」と太宰治が『斜陽』に書いた。「病気の母がある」「だれかいい人ある?」と昔の小説や映画には「ある」がでてくるという。「いる」と「ある」を使い分けるのは近年のことなのだそうだ(日経新聞「春秋」)。

「いる」は生物に、「ある」は無生物に使う。だけど、生物でも動かない植物は「ある」というのが一般的になっている。

There is a girl.
There is a tulip.
There is a desk.

「ある」「おる」「いる」、どれを使ったっていいじゃない。昔はそうだったから。

でもねえ、田舎から出て時間がたちすぎた。「わたしには恋人があるの」と、今となっては言いにくい。恋人が「いない」せいもあるけれど。


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